「信じて祈ろう」マタイによる福音書21章18~22節 2026年1月11日
(はじめに)
先週は、イエスさまの「宮清め」と言われる聖書の言葉を読みました。神さまの宮、神殿。それは、私たち自身のことです(一コリント3章16、17節参照)。私たち自身が、神さまの神殿というのはどういうことかというと、神さまが私たちの内にお住まいになっているということです。この新しい年も、主が私たちの内におられる。主が私たちと共におられる。このことを信じて歩んでまいりましょう。
(聖書から)
今日お読みした聖書の言葉は、「宮清め」の後の個所です。このような言葉から始まります。
21:18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
イエスさまが空腹を覚えられた、という場面です。道端にいちじくの木がありました。イエスさまはお腹が空いていましたから、いちじくの実が成っていないか、ご覧になったのでしょう。19節には、このようなことが書いてありました。
21:19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
いちじくの木には、実は成っていませんでした。葉の他には何もなかった、ということです。すると、イエスさまは、このようなことを言われました。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」。いちじくの木はたちまち枯れてしまった、ということです。
先週の聖書個所の神殿でのイエスさまの振る舞い、そして、今日の聖書個所でのいちじくの木についてイエスさまが言われたことは、私たちが考えているイエスさま、イメージしているイエスさまとはかけ離れているように思えます。イエスさまは、ご自分がお腹が空いたからといって、いちじくの実が成っていないことで腹を立てて、こんなことを言われたのでしょうか?人間らしい、私たちとは変わらない、そういうイエスさまに親しみを感じる。そのように思われる方があるかもしれませんが、ここに書かれていることは、そういうことなのでしょうか?
このいちじくの木の話は、マルコによる福音書にも書かれています。その箇所では、このようなことが書かれていました。「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである」(マルコ11章12、13節)。マルコによる福音書の方がもう少し詳しく書いてあって、「いちじくの季節ではなかった」とあります。それなのに、イエスさまは、いちじくの木に向かって、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われたというのです。これもイエスさまが何ということをなさるのだろうか?と思わざるを得ません。
マタイによる福音書には書いてありませんが、マルコによる福音書では、この様子を見ていた弟子たちの言葉として、このようなことが書かれています。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」(マルコ11章21節)。弟子の一人であるペトロがイエスさまに、「あなたが呪われたいちじくの木」と言っています。それで、この聖書の個所について、「いちじくの木を呪う」という小見出しが付けられたようです。
しかし、ここに書かれていることは、イエスさまがいちじくの木を呪った話ということでしょうか?いちじくとか、ぶどうというのは、聖書の中では、イスラエルの民、つまり、神の民を象徴する植物として出てきます。今日の個所の前、先週お読みした個所では、あなたがたは、神殿を、祈りの家ではなく、強盗の巣にしている、とイエスさまは言われました。その出来事と関連して、今日の個所を聴いていきたいと思うのです。
イエスさまは、空腹を覚えられた、ということから、今日の個所は始まりました。この「空腹を覚えられた」という言葉は、「飢えを覚えた」(岩波訳2004年版)とも訳されています。飢えというと、空腹よりも、もっと強い意味になります。イエスさまが飢えを覚えた。それは、ただお腹が空いた、という話ではないのです。いちじくの実を求めていた。それなのに、ちっとも実ってはおらず、葉ばかりが生い茂っていた・・・。イエスさまが求めておられたのは、いちじくの実ではないのです。神の民の実り、神の民の信仰の実りを求めておられたのです。
今日お読みした聖書の言葉の後半の部分をお読みします。
21:20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。21:21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。21:22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
弟子たちの言葉とそれに対するイエスさまの答えが何かかみ合わないように思えます。弟子たちは、いちじくの木が枯れたことを驚いて、イエスさまにそのことを尋ねています。ところが、イエスさまは、このように言われました。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。
いちじくの木は枯れてしまった。イエスさまは、あなたがたもしっかりしないと、不信仰のままだと、このいちじくの木のようになってしまうよ、枯れ果ててしまうよ。そんなことは、一言も言われませんでした。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい・・・」。いちじくの木については、何かスルーしているような言い方です。ちなみにマルコによる福音書では、いちじくの木のことはまったく触れていません(マルコ11章22節以下)。
イエスさまが弟子たちに言いたかったこと、それは、信仰を持ちなさい、疑わないで信じなさい、ということでした。先週お読みした聖書の言葉の中に、祭司長たち、律法学者たちが、子供たちが「ダビデの子にホサナ」と言っていることをイエスさまに話している場面がありました。祭司長たち、律法学者たちは、何も分からない子供たちがあんなことを言っている。何と不敬虔な、冒涜的なことか!と腹を立てて言ったことでしたが、イエスさまはそれを聞いて、こう言われたのです。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」(16節)。イエスさまは喜んで、感激してこう言ったのです。幼子や乳飲み子、それは確かに何も分からないような小さな小さな存在です。ところが、その小さな子供たちが神さまを賛美している!それは、神さまが子供たちの口を用いて賛美させたのです。イエスさまは、何をご覧になっていたのでしょうか?何をお聴きになっていたのでしょうか?神さまのみわざを見ておられた、聴いておられたのです。
そして、今日の個所で分かること、それはイエスさまは、いちじくの木が実ることをあきらめていないのです。神の民が、私たちが信仰の実を実らせることをあきらめていないのです。信仰を持ち、疑わないなら、「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」。「山を動かす信仰」ということで知られている聖書の言葉です。信じたら山を動かすこともできる。それは、「不可能を可能にする」という意味です。できるはずがない、絶対に無理・・・。人間の考えでは、そのようにしか思えないこと、しかし、神さまが可能にしてくださる、神さまが実現してくださる。そのことを信じていくのです。
(むすび)
今日の聖書の言葉の最後に、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とありました。求めるものは何でも得られるから信じて祈りなさい。これは大きな励ましです。では、「求めるもの」とは何であるか、そのことを考えてみたいと思います。私たちが求めているもの、それは本当に求めるべきものなのか?神さまの目から見て、良いものなのか?そのことを考えてみることは大事なことです。イエスさまは、山上の説教の中で、求める、ということについて、語っておられます(7章7~10節)。
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とあります。神さまは、求める者に良いものをくださるとあります。神さまが与えてくださる良いもの。それはもしかすると、今の自分にとっては、良いものとは思えない、求めていないものかもしれません。けれども、その求めていなかったものが、後になって、自分にとって本当に良いものであることが分かる時が来るのです。
私は幼稚園の子供の時に、将来、何になりたいですか?と尋ねられて、おもちゃ屋さんになりたい!と答えました。それは、おもちゃ屋さんだと、いつもおもちゃに囲まれるから、そう答えたのです。その時の私にとっての良いものとは、おもちゃでした。ところが、私の親は、おもちゃはあまり買ってくれませんでした。買ってくれるものというと本ばかりでした。それは私にとってはあまり嬉しいこと、楽しいことではなかったのです。けれども、後になってみると、何が自分にとって良かったか、ためになったか、というと、その時、自分が求めていたもの、良いものと思っていたものではありませんでした。
私たちはこのことを信じていきたいと思います。神さまは、私たち以上に、私たちにとって良いものを知っておられる、与えてくださるお方。お祈りいたします。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主はいちじくの木をご覧になりました。葉ばかりで実のないいちじくの木。しかし、主は弟子たちに語られました。信仰を持つように、疑わないように、と。私たちは自分で自分を実らせることはできません。しかし、神さまに祈り求めていく時、神さまが私たちに信仰を与え、信仰の実を結ばせてくださいます。どうか、神さまの与えてくださる良いもの、良いことに目を向けて生きる私たちでありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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