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「後で考え直して」マタイによる福音書21章28~32節 2026年2月8日

後で考え直して マタイによる福音書21章28~32節 2026/ 2/ 8 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 イエスさまは、たとえを用いて人々に語られました。教会学校では、今、マルコによる福音書から学んでいます。その学びの聖書個所の中にも、イエスさまのたとえ話がありました。マルコによる福音書4章の「『種を蒔く人』のたとえ」と呼ばれる聖書個所です(マルコ4章1~9節)。そのたとえ話のすぐ後に、今度は、イエスさまがたとえ話を用いて語られる理由について書かれていました(マルコ4章10~12節、マタイではマタイ13章10~17節)。
 この礼拝では、マタイによる福音書の聖書の言葉からお話しさせていただいていますから、マタイによる福音書の方のたとえ話を用いる理由の個所を一部、読んでみたいと思います(マタイ13章16節)。
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
 ここで言われている「あなたがた」というのは、天の国の秘密を悟ることが許されている人たちのことです(マタイ13章11節)。イエスさまは、たとえ話を用いて語られました。そのことによって、話そのものは理解しやすい、分かりやすい話になりました。けれども、話そのものは理解したとしても、分かったとしても、そこで天の国の秘密、つまり、イエスさまが語られている意味を悟る人と悟ることのできない人で分かれるというのです。ではどうしたら、イエスさまが語られている意味を悟ることができるのか、というと、「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」とありました。ここに違いがあるのです。「あなたがたの目は見ている」、「あなたがたの耳は聞いている」。私たちは、何を見ているでしょうか、何を聞いているでしょうか。

(聖書から)
 さて、今日お読みしたイエスさまのたとえ話は、新共同訳聖書では、「『二人の息子』のたとえ」という小見出しが付けられていました。28節からお読みします。
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
 「ところで、あなたたちはどう思うか」という言葉から始まります。この「あなたたち」というのは、誰のことでしょうか。先週お読みした聖書個所では、イエスさまと祭司長たち、民の長老たちの間で、権威問答があったことが書かれていました。その話に続いていますから、ここで「あなたたち」というのは、祭司長たち、民の長老たちのことと考えてよいかと思います。
たとえ話の内容を見ていきましょう。「ある人」というのは、ぶどう園の所有者、主人でしょうか。その人に二人の息子がいました。この人は、まず、兄息子にこのように言いました。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。すると、兄息子はこのように答えました。「いやです」。ぶどう園へ行って働くことを拒否しました。しかし、このようなことが続いて書かれています。「後で考え直して出かけた」。最初は「いやです」と言っていたのですが、後になって、彼は考え直したのです。そして、ぶどう園へ行って働くことにしたのです。
 次に、この人は、弟息子にも同じことを言いました。すると、弟息子は、このように答えました。「お父さん、承知しました」。しかし、彼はぶどう園へ出かけることはしませんでした。
 この話をされて、イエスさまは、祭司長たち、民の長老たちにお尋ねになりました。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」
 兄と弟、どちらが「父親の望みどおりにしたか」。この話は難しい話ではありません。私たちもすぐに答えることができると思います。この後の彼らの答え、そして、それに対するイエスさまの言葉をお読みします。
21:31 彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
 もちろん、答えは兄の方です。兄息子は、ぶどう園へ行って働くように、と言われたのに、初めは「いやです」と言いました。しかし、後で考え直して、ぶどう園へ出かけたのです。兄の方が父親の望みどおりにしたのです。彼らが、そのように答えたところ、イエスさまはこのように言われました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。
 いきなり、このようなことを言われて、彼らは戸惑ったことと思います。ところで、祭司長たちや民の長老たちというのは、ユダヤにおいては、社会的にも、宗教的にも、指導的な人たちであり、また、律法に忠実であることを求め、真面目に生きてきた人たちが大半だったようです。徴税人というのは、当時、ユダヤはローマの属国で、徴税したお金はローマに収めることになっていましたから、ローマのために働いている売国奴、ユダヤの裏切り者と呼ばれたり、徴税人の中には、不正な取り立てをする者もいて、ユダヤの人々の間では、評判が良くありませんでした。また、娼婦たちについても、不品行な人たちと見られていたと思います。そのようなことから、徴税人や娼婦たちは、神の国からは遠い人たち、救われることのない人たちと考えられていたと思います。しかし、主は、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と言われたのです。
 イエスさまの言葉の続きをお読みします。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
 なぜ、イエスさまはこのようなことを言われたのか、その理由が語られています。「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ」。ヨハネというのは、洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネと呼ばれる人のことです。この人が義の道を示した。そのことについては、先週、お話ししました。ユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3章2節)と悔い改めを説いた人でした。しかし、「あなたたちは彼を信ぜず」とあるように、祭司長たちや民の長老たちは、ヨハネの言葉に耳を傾けることをせず、信じなかった、悔い改めなかったのです。徴税人や娼婦たちはどうだったかというと、「徴税人や娼婦たちは信じた」とあります。神の国からは遠いと考えられていた、救われることはないと考えられていた人たちが、ヨハネの言葉に耳を傾けて、信じた、悔い改めのです。
 「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。この言葉を聞いて、祭司長たちや民の長老たちは、驚いたというよりも、なぜだろう?と首をかしげたと思います。なぜなら、祭司長たちや民の長老たちの多くは、先ほどもお話ししたように、真面目な、信心深い生活を送っていたからです。一方、徴税人や娼婦たちが、彼らよりも優れた生活を送っていたかというと、そうではなかったと思います。それなのに、なぜ、イエスさまはこんなことを言うのだろうか?と思ったのではないでしょうか。
 もう一度、32節をお読みします。「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。この短い言葉の中に、繰り返されている言葉があります。「信ぜず」、「信じたから」、「信じようとしなかった」。イエスさまが、ここで言われたこと、それは、「信じる」ということです。信じるか、信じないか、ということです。
 祭司長たちや民の長老たちは、「信じる」ということで言えば、神さまを信じる人たちでした。それも信じるということにおいては、模範的な人たちでした。しかし、イエスさまは、このように言われました。「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず」、「後で考え直して彼を信じようとしなかった」。義の道、それは、悔い改めのことです。彼らは、神さまを信じてはいました。しかし、義の道を信じなかった、悔い改めることをしなかったのです。
 皆さんはどうでしょうか?悔い改める必要のないクリスチャンというのは、いるのでしょうか?もう私はイエスさまを信じている。悔い改めてバプテスマを受けた。だから、今さら悔い改めなど、必要はない。そうでしょうか?

(むすび)
 イエスさまのたとえ話を振り返ってみたいと思います。このたとえ話の中で、父親は兄息子にこのように言いました。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。この「ぶどう園へ行って働きなさい」というのは、父親が望んでいたことでした。しかし、兄息子は、「いやです」と答えました。ここまで読んできて、お分かりのように、父親というのは、神さまのことです。息子たちというのは、私たちのことです。私たちも、神さまの招きを聞いても、最初は「いやです」と言ってきた者だと思います。それが、後から考え直して、神さまの招きに応えていった一人一人ではないでしょうか。神さまは、私たちが後から考え直すのを待っておられる方です。私たちのことを待っておられる、待ってくださる神さまに感謝したいと思います。
 そして、もう一つのメッセージを聞きたいと思います。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。ここには、「今日」とありました。神さまは、今日、今、ぶどう園へ行って働くように、言われたのです。このぶどう園へ行って働く、というのは、「信じる」ということが言われているのではないでしょうか。今日、今、信じなさい、ということです。
 祭司長たちや民の長老たちは、神さまを信じていました。しかし、今日、今、神さまを信じなさい、神さまの前に悔い改めなさい、と言われたら、いやいやもう私は、十分、信じてきました、十分、悔い改めてきました、と答えるのでしょうか?皆さんはどうでしょうか?
 神さまが求めておられる信仰というのは、昨日の信仰ではないと思います。明日の信仰でもないと思います。今日の信仰、今の信仰を求めておられると思います。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。この言葉を聞いて、私はもう一つのみ言葉を思い起こしました。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ4章7節)。今日、神さまを信じましょう。今日、神さまに従っていきましょう。お祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。この呼びかけは、私たちにも与えられていると信じます。なぜなら、私たちも「子」、神の子とされた一人一人だからです。
私たちは、神さまの招き、呼びかけに、何度も「いやです」と言い続けました。しかし、主は何度も、何度も、私たちをあきらめずに、招いてくださいました、呼びかけてくださいました。
私たちは、後で考え直して、主のもとに来ました。あなたが、私たちを待っていてくださったことを感謝します。
今日も私たちは、この言葉を聞きます。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。私たちも、今日、主を信じます、主に従います。どうぞ、私たちを導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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