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神さまの愛を知ることから始まる信仰(マタイ22章34~40節) 【週報巻頭言】2026年5月31日

律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。(マタイ22章40節)

律法全体と預言者というのは、聖書全体ということです。聖書は、この二つの掟に基づいているというのです。神さまを愛すること、隣人を愛することです。ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々というのは、神さまの掟を守ることに一生懸命努めている人たちでした。それなのに、このイエスという人は、私たちに問いかけてくる。いったい、私たちのどこに欠けがあるというのか?私たちは真面目に神さまに従ってきたのにどういうつもりなのか?彼らがイエスさまを憎んだのはそういう理由からでした。しかし、まさにこの言葉こそは、イエスさまが彼らに言いたかったことでした。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。聖書は、神さまを愛すること、隣人を愛すること、この二つに基づいていると言われたのです。

愛の章として、知られている聖書の言葉があります。コリントの信徒への手紙一13章の言葉です。そこにはこのようなことが書かれています。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(一コリント13章1~3節)

ここで言われていることは何かというと、愛のない信仰のことです。愛のない信仰、それは「騒がしいどら、やかましいシンバル」、「無に等しい」、「何の益もない」というのです。神さまを愛することから、隣人を愛することから出ているのではない信仰はこういうものだというのです。私たちが語ること、行なうこと、そのすべては、神さまを愛するところから、隣人を愛するところから始められていくのです。

私は神さまに愛されている。私だけではありません。あの人も、この人も神さまに愛されている。その愛を知る、愛されていることを知る私たちは、その愛に応えていこうとするのです。信仰生活は神さまの愛から始まるのです。神さまの愛を知らない信仰生活というのもあります。それはまるで修行、いいえ、苦行のようなものです。聖書が教える信仰はそうではありません。神さまは愛です。神さまの愛を知ることから始まる信仰です。

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