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「メシアを主と呼ぶ信仰」マタイによる福音書22章41~46節 マタイによる福音書22章41~46節

メシアを主と呼ぶ信仰 マタイによる福音書22章41~46節 2026/ 6/ 7 赤塚バプテスト教会(朝・夕) 礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 聖書を読みますと、人々がイエスさまのところに行って尋ねた、質問した、という場面が幾つも出てきます。しかし、今日お読みした聖書個所には、イエスさまの方から、人々にお尋ねになった、質問された、ということが書かれていました。ではイエスさまは、どのようなことを質問をされたのでしょうか?お尋ねになったのでしょうか?

(聖書から)
 その聖書の言葉を読んでみます。
22:41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。22:42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」
 ファリサイ派の人々が集まっていた、とあります。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の一派です。そして、律法学者の多くはファリサイ派に属していました。彼らは宗教的に熱心な人たちということが言えるでしょう。その人たちにイエスさまがお尋ねになった、というのです。
一方、今日お読みしたマタイによる福音書22章の中には、イエスさまに尋ねた、という場面が何度も出てきます。一部、読んでみますと、「ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた」(15、16節)。「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた」(23節)。「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた」(34、35節)。このように、ファリサイ派の人々、またサドカイ派の人々がイエスさまに尋ねた、ということが書かれていました。読んでみて、一つ気になることがあります。それは、イエスさまに尋ねた、質問した動機です。「イエスの言葉じりをとらえて」とか、「イエスを試そうとして」とあります。イエスさまから何か大切なことを聞こうと思って、尋ねたのではなかったのです。しかし、そういう彼らに対して、イエスさまは、その動機をご存じのうえで誠実に答えていったのです。
今日の聖書個所に戻ります。イエスさまの方からお尋ねになった。どういうことをお尋ねになったのか、というと、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」ということです。イエスさまは、彼らにメシアのことをお尋ねになりました。メシア、それは、ヘブライ語で、「救い主」ということです。ヘブライ語というのは、聖書の舞台であるユダヤの人々が使っている言葉です。イエスさまは、メシア、救い主について、あなたたちはどう思うか、メシアは誰の子か、とお尋ねになりました。
 この質問を受けたファリサイ派の人々は何と答えたでしょうか。ファリサイ派の人々は、聖書の言葉をよく学び、よく知っていましたから、イエスさまの質問についてすぐに答えることができたと思います。彼らは「ダビデの子です」と答えました。「ダビデの子」。これは、ダビデの子孫という意味です。
「ダビデの子」とありましたが、マタイによる福音書の一番初めには、こういう言葉が書かれています。
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
 聖書を初めて読む場合、新約聖書から読み始める方が多いのではないかと思います。ところが、この新約聖書の初めの個所というのは、「イエス・キリストの系図」とありますように、いきなり、ずらっとカタカナで聞いたことのないような名前が羅列されていて、最初の1ページで聖書を読むことを挫折してしまった、という話をよく聞きます。なぜ、マタイによる福音書は、系図から始まっているのでしょうか。それは、この福音書は、ユダヤ人を対象に書かれたからだと言われています。ユダヤ人というのは、系図を重んじました。マタイは、イエス・キリストを伝えたくて、この福音書を書きましたが、その最初に、イエスさまという方が、どのような血筋の方であったかを示して、ユダヤ人に、関心を持ってもらおうと考えたのです。イエスさまは、信仰の父と言われたアブラハムの子、アブラハムの子孫であり、イスラエルの偉大な王であったダビデの子、ダビデの子孫であった、ということを示したのです。
メシアとは、救い主のことだと言いました。救い主というのは、私たちを救ってくださる方ということです。ユダヤの人たちは、自分たちを救ってくれる救い主を待ち望んでいました。この聖書の書かれた時代、二千年前のユダヤは、ローマ帝国に支配されていました。ユダヤの人たちは、自分たちの国が、ローマ帝国の支配から解放されるように、と願っていました。その解放を実現してくれるのが、メシア、救い主だと信じていたのです。ユダヤの人たちにとってのメシア、救い主とは、ローマ帝国からの救い、つまり、政治的な、軍事的な救いをもたらす方と信じていたのです。
そういう状況の中で、イエスさまは、人々に質問したのです。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」。このイエスさまの質問に、ファリサイ派の人々はすぐに答えました。「ダビデの子です」。救い主は、ダビデの子孫として、ダビデの血筋から生まれる。そう答えたのです。
さて、42節の後半から、イエスさまとファリサイ派の人々のやり取りを読んでみます。
22:42 彼らが、「ダビデの子です」と言うと、22:43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。22:44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
 ファリサイ派の人々が、「ダビデの子」と答えたことに対して、イエスさまは、このように言われました。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか」。ユダヤの人々は、救い主は、あの偉大な王であったダビデのような方、力のある王としておいでになると、期待して、待ち望んでいました。ところが、イエスさまはこのように言われたのです。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか」。
 二重かぎ括弧で書かれている44節の言葉は、旧約聖書の詩編の言葉です。イエスさまは、詩編110編1節の言葉を引用して言われたのです。ダビデは、「主は、わたしの主にお告げになった」と言っている。それは、ダビデが、メシア、救い主を「私の子孫」と言わないで、「私の主、私の神さま」と言っている。それはどういうことか?と言っているのです。これを聞いたファリサイ派の人々の反応については、46節にこのように書かれています。
22:46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。
 イエスさまの言われたことに、誰も答えることができなかった、ということです。それまで、彼らは、イエスさまに対して、その言葉じりをとらえようとして、試そうとして、質問してきました。イエスさまはそういう彼らに対して、仕返しをされたのでしょうか?いいえ、そうではありません。イエスさまは、彼らに対して、あなたがたが待ち望んでいるメシア、救い主とはどのような方であるのか、誰であるのか。そのことを示すためにこの質問をされたのです。
 イエスさまが質問された、という場面が、同じマタイによる福音書にあります。その箇所をお読みします(16章13~17節)。
16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者(バプテスマの)ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
 イエスさまは、ご自分の弟子たちにあることを尋ねています。それは、ご自分のことを何者だと言うのか、ということでした。最初に、人々は、私のことを何者だと言っているか、という質問をしました。そして、続いて、それでは、あなたがたは、私のことを何者だというのか、と質問をしたのです。すると、弟子の一人であるペトロがこのように答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。ここにメシアという言葉が出てきます。メシアとは、救い主のことです。ペトロは、イエスさまのことを、あなたはメシア、救い主です、と答えたのです。イエスさまは、それに対して、このように言われました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。
 イエスさまがメシア、救い主、生ける神の子と告白できるのは、信じることができるのは、人間の知恵や悟りによるものではない、ということです。皆さんは、ご自分がイエスさまのことを救い主と告白したのは、信じたのは、自分の知恵や悟りではないことはよく分かっていることだと思います。神さまが聖霊によって、イエスさまが救い主であると信じることができるように導いてくださったのです。

(むすび)
 今日の聖書個所に戻ります。イエスさまがファリサイ派の人々に質問したのは、彼らの言葉じりをとらえるため、試すためではありませんでした。聖書の言葉を引用され、聖書に書かれているメシア、救い主とは誰か、そのことをお示しになるために、主は彼らに出会われ、お尋ねになったのです。救い主は、ダビデの子、ダビデの子孫としておいでになります。しかし、そのダビデが、「私の主」と言われた方、その救い主とは誰か?その方は、今、あなたがたの目の前にいる。ところが、彼らはそこにおられる方、イエスさまこそが、救い主であるということには気づかなかったのです。
 イエスさまの弟子のペトロ、そして、その他の弟子たちは、イエスさまが救い主であると信じることができました。彼らは、ファリサイ派の人々のように豊富な聖書の知識があったわけではありませんでした。しかし、今、ここにおられる方が救い主であると告白すること、信じることができたのです。それは、彼らの知恵や悟りによるのではなく、神さまが聖霊によって、示してくださったことでした。そして、今、私たちも、イエス・キリスト、この方こそが、救い主であると告白すること、信じることができるように、主は私たちに出会ってくださり、導いておられます。このことを心から感謝したいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主は、ファリサイ派の人々に出会ってくださり、彼らにメシアについてお尋ねになりました。しかし、彼らは、今、そこにおられる方こそがメシア、救い主であることには気づきませんでした。
主は、今、私たちにも出会ってくださり、私を何者だと言うのか?メシアとは、救い主とは誰か?とお尋ねになります。私たちは、今、私たちに出会ってくださっている方が救い主であることを告白し続けていくことができますように、信じ続けていくことができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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