「内側がきよめられるように求めよう」マタイによる福音書23章25~39節 2026年7月12日
(はじめに)
マタイによる福音書23章は、最初の1節から最後まで、律法学者たち、ファリサイ派の人々に向けて、イエスさまが厳しい言葉を語っておられるという内容です。しかし、イエスさまはこのような言葉で語り出していました。「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった」(1節)。群衆と弟子たちにお話しになった、とあります。それが、話しているうちに、13節からは、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と律法学者たち、ファリサイ派の人々の方に向けられた言葉になっています。このように考えてみると、イエスさまは、ある特定の人たちだけではなくて、全方位に向けて語られた。つまり、すべての人たちに向けて語られた言葉だったということが言えると思うのです。ですから、私たちは、聖書の言葉を読む時、他人事として読むのではなく、この私にも語られている言葉。そのように聴いていくことが大事なことではないかと思うのです。
(聖書から)
今日は、マタイによる福音書23章の後半の部分を読みました。ここでも、イエスさまは、あなたたちは、不幸だ、と語っています。また、あなたがたは不幸だ、と言われたのは、あなたがたは不幸な運命にあるとか、不幸な状況にあるということではなくて、不幸な生き方を、幸いではない生き方を自ら選び取っているのではないか。そういう意味で言われているように思います。
25節からお読みします。
23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
ここでイエスさまは、外側と内側ということをお話しになっています。杯や皿の外側をどんなにきれいにしても、お墓の外側をどんなに白く塗ってきれいにしても、内側がきれいでなければ、どうにもならない、というのです。「内側は強欲と放縦で満ちている」とか、「内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」とあります。そして、「このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」と言われます。これらのことから分かることは、イエスさまが言われた「内側」というのは、私たちの心の中について言われているということです。
イエスさまは、なぜ、内側のこと、心の中のことを厳しく問われるのでしょうか?当時の人々の信仰というのは、人に見られるため、人に称賛されるための信仰になっていたからです。マタイによる福音書6章には、イエスさまがそのことについて語られたメッセージが書かれています。そこでは繰り返し、「隠れたことを見ておられる(あなたの)父」(6章4、6、18節)、「隠れたところにおられる(あなたの)父」(6章6、18節)ということが言われています。
この「隠れたことを見ておられる(あなたの)父」、「隠れたところにおられる(あなたの)父」とは、神さまのことです。「隠れたこと」、「隠れたところ」というのは、私たちの心の中のことであり、神さまは私たちの心の中を、つまり、すべてをご存じであると言われているのです。正直なところ、私たちは、何か自分が善いことをしているのを人に知られ、人から称賛を受けるととても嬉しくなります。例えば、子供たちが何か善いことをしたら、それは善いことをしたね。私は嬉しいよ、と言ったりします。すると、褒められた方は、褒められると嬉しいですから、それが励みになって、ますます積極的に善いことを行うようになったりしますから、それは大事なことだと思います。
ではイエスさまが言われたことはどういうことでしょうか。誰が見ていても見ていなくても善いことを行いなさい!ということでしょうか?いいえ、そうではありません。イエスさまが言われたことは、あなたのことをいつも見ておられる方がいますよ、あなたのすべてを知っておられる方がいますよ、ということでした。私のことをいつも見ている、私のすべてを知っている、いったいそれは誰でしょうか?それは神さまです。神さまはあなたのことをいつも見ておられる、あなたのすべてを知っておられるのです。人が見ていても、人が見ていなくても、人が称賛しても、人から称賛されなくても、神さまはあなたを見ておられる、神さまはあなたを喜んでおられる。だから、そのことを思いながら、何事でもやりなさい、とイエスさまは言われたのです。
今日の聖書の中で、イエスさまは大変厳しいことを言われました。「内側は強欲と放縦で満ちている」、「内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」、「内側は偽善と不法で満ちている」。これは、律法学者たち、ファリサイ派の人々だけのことではありません。私たち人間の内側、心の中というのは、こういうもので満ちている。一言で言うならば、罪で満ちているということです。罪と言いましたが、聖書で言う罪とは、神さまの愛から離れていること、神さまの喜ばれないこと、神さまが悲しまれることです。
そういう私たちの信仰生活というのは、積極的な面と消極的な面があるのです。積極的な面というのは、善いことのために励むということです。愛すること、赦すことに積極的に励むのです。けれども、一方では私たちの内側、心の中には罪があります。信仰生活の消極的な面というのは、自分の中の罪と闘うということです。使徒パウロは、自分の中にある罪の問題についてこのように語っています(ローマ7章15、18~20、24、25節)。
7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
自分では、神さまの言葉を知っているし、何が正しいことなのか、善いことなのかも知っている。神さまの喜ばれることをしようとする自分がいます。しかし、それとは反対のことを思ったり、してしまう自分もいます。今、信仰入門クラスを行っていますが、その学びの中で、自分の中には、二人の自分がいる、という話が出ました。そうなのです、私たちは、自分の中に、二人の自分がいるのです。神さまに従おうとする、正しいこと、善いことを求め、行なおうとする自分がいる。しかし、もう一人の自分がいる。それは、神さまではなく、自分に従おうとする自分、人を憎んだり、妬んだり、裁いたりする自分がいるのです。信仰生活というのは、その闘いです。自分の内側にある罪、神さまに逆らおうとする自分と闘うのです。しかし、自分ではその闘いに勝利することはできないのです。今日の説教題は「内側がきよめられるように求めよう」としましたが、自分の内側がきよめられるために、何か修行をしないといけないでしょうか?お祓いをしてもらわないといけないでしょうか?いいえ、何をやっても私たちは罪に勝利することはできない、きよめられることはないのです。ですから、パウロはこのように言っています。「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。けれどもパウロはそれに続いて、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言っています。イエス・キリストが私たちを罪から救い、罪に勝利してくださるのです。内側をきよめるために、罪に勝利するために私たちはどうしたらよいのでしょうか?それは、私たちが主の下に行くこと、それだけなのです。
34節をお読みします。
23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
イエスさまは、自分の義、自分の正しさを主張し、他者を裁く者たち、自分の中にある罪に気づかない者たちのために、神さまが働き人を遣わされたと語られました。しかし、あなたがたは、神さまが遣わした人たちを迫害した、というのです。これは、旧約聖書から続く歴史の中の出来事を語っておられるのです。このことを語られたイエスさまご自身もまもなく、十字架につけられることになります。
(むすび)
イエスさまは、このように大変厳しい言葉を語られましたが、最後に語られたことが37節以下の言葉です。
23:37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。23:38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。23:39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」。新共同訳聖書では、37節以下について、「エルサレムのために嘆く」という小見出しを付けています。イエスさまは、律法学者たち、ファリサイ派の人々、そして、群衆、弟子たちの罪を嘆いておられる、悲しんでおられるのです。このマタイによる福音書23章には、厳しい言葉が語られていましたが、それはイエスさまが、人々の罪を嘆いて、悲しんで語られたことだったのです。私たちが罪に陥り、罪に支配されることを主は嘆いておられる、悲しんでおられる。そのイエスさまの心を私たちは忘れてはならないのです。
「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」とあります。神さまは、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私たちを集めようとされる方なのです。今まで、何度も、何度も神さまの方から、私の下に来なさい、と呼びかけてきたのに、あなたがたはことごとくそれを拒否してきたというのです。
以前、教会の案内掲示板を東武東上線の下赤塚駅のところに掲げていたことがあります。その掲示板には、こういう聖書の言葉を載せていました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。これはマタイによる福音書11章28節の言葉です。「だれでもわたしのもとに来なさい」。イエスさまの招きの言葉です。この言葉のように、私たちは今、イエス・キリストの恵みの下に入りなさい、と呼びかけられているのです。
今日の聖書の最後の言葉、39節には、「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」とありました。私は、この「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで」という言葉がとても心に残りました。これは、イエスさまが、私たちが神さまに立ち帰り、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と神さまを賛美する日が来ることを待ち望んでいたということではないでしょうか。主は私たちを呼んでおられます、招いておられます。主の下に立ち帰って行きましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主は律法学者たち、ファリサイ派の人々、そして、群衆、ご自分の弟子たち、すべての人々に語られる方です。神さまの前に自分がどんな者であるかを知り、そのままで主の下に立ち帰ることを待ち望んでおられます。私たちも今、主の呼びかけ、招きに応えて、主の下に行くことができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
この記事へのコメントはありません。