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「死に勝利する信仰」ヨハネによる福音書11章28~44節 2026年8月16日 

(はじめに)
 本日の礼拝は、召天者記念礼拝として行っています。召天者記念礼拝とは、先に神さまのみもとに召された方々をおぼえる礼拝です。このように言うこともできるでしょう。地上に残されている私たちと神さまのみもとにある、天にある方々が一緒に礼拝している。実は、それは今日の礼拝だけではありません。毎週の礼拝は、地上と天の合同の礼拝なのです。ここにいるのは私たちだけではない。私たちの愛する今は神さまのみもとにいる人たち。いかがでしょうか、そのことを思うと、この礼拝が喜びとなり、楽しみとなるのではないでしょうか。

(聖書から)
 お読みした聖書は、ヨハネによる福音書11章28節からです。この聖書の個所には、マルタとマリアの姉妹、その兄弟であったラザロの死についての記事が書かれています。マルタとマリアは、自分の兄弟の死をとても悲しんでいました。マルタは、イエスさまにこのように言っています。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(21、22節)。
 イエスさまは、ラザロの死に立ち会うことができませんでした。マルタは、このように考えていたようです。それは、ラザロが瀕死の状態にあった時、そこにイエスさまがおいでくだされば、ラザロは死ななかったかもしれない。それで、マルタはイエスさまにこのようなことを言ったのです。イエスさまは、マルタにこのように言いました。「あなたの兄弟は復活する」(23節)。ラザロが復活すると言われました。これに続いて、イエスさまが語られたこと、それはこの召天者記念礼拝で、召天者の方々の名前を私が読み上げる時、その最後に引用する聖書の言葉です。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25、26節)。イエスさまが言われたこと、それは、イエスさまご自身が復活であり、命であるということです。イエスさまを信じる者は、死んでも生きる。イエスさまを信じる者は、誰も決して死ぬことがない。
 私たちにとって、この言葉は不思議な言葉のように思えます。なぜなら私たちは、人は死んだら終わりと考えるからです。ところが、イエスさまは、死んでも生きると言われるのです。ここに出席しておられる方々の多くは、自分の家族を天に送られた経験のある方々だと思います。自分の愛する家族が死んだ。地上の生涯を確かに終えた。ところが、イエスさまが言われるのは、死んでも生きるということです。それは、地上の生涯を終えても、それで終わりではない、ということです。イエスさまと共に生き続ける。死んでも生きるとは、永遠の命を生きるということです。
 聖書の言葉に戻ります。マルタは、家に戻り、姉妹のマリアにこのように言いました。「先生がいらして、あなたをお呼びです」(28節)。ここで「先生」というのは、イエスさまのことです。イエスさまが、私たちの家においでになった。そして、マリアを呼んでいるというのです。マルタは、イエスさまを迎えに行きました(20節)。自ら会いに行ったのです。一方、マルタの姉妹マリアは、家の中に座っていました。対照的な姉妹です。もしかすると、マリアは、兄弟ラザロの死のことで、深く悲しみ、誰とも会いたくないと思っていたかもしれません。そういうマリアのところに、イエスさまの方から会いに来てくださった。マリアを呼んでくださったのです。イエスさまはこのような方です。私たちにも自ら、会いに来てくださる。私たちを呼んでくださる。そういうお方です。
 さて、この呼びかけに対して、マリアはどうしたのでしょうか。「マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った」(29節)とあります。そして、イエスさまにこのように言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。先ほどのマルタと同じ言葉です、同じことを言っています。マルタもマリアも、イエスさまが兄弟ラザロが生きているうちに立ち会ってくださるなら、死ぬことはなかった。そう考えていたのです。
 マリアの言葉の後、イエスさまはどうされたのか、そのことが書かれている聖書の言葉をお読みします。
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。11:35 イエスは涙を流された。
 マリアは泣いていました。それは、悲しみの涙であったでしょう。しかし、イエスさまについては、このように書かれています。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」。イエスさまは、マリアが泣いている様子をご覧になりました。また、一緒に来たユダヤ人たちも泣いている様子をご覧になりました。この一緒に来たユダヤ人たちという中には、「泣き女」と言われる人たちもいたと考えられます。この人たちは、葬儀の時などに、お金を払って雇った人たちで、悲しみの気持ち、雰囲気を盛り上げる役割を担った人たちのことです。
 しかし、イエスさまはその人たちと一緒に泣くことはなさらず、心に憤りを覚えた、というのです。憤りです、怒りです。しかも興奮して憤ったというのです。なぜでしょうか?そして、ラザロを葬った場所をお尋ねになり、その後に「イエスは涙を流された」と書かれています。人々はこのイエスさまの様子を見て、「どんなにラザロを愛しておられたことか」(36節)と言っていたということですが、イエスさまの涙と人々の涙とは、どうも違いがあるように思えます。それは、次の言葉から分かります。
11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
 ここでも、イエスさまは心に憤りを覚えられた、とあります。憤りというのは、場違いのように思えます。ここは、悲しむところでしょう、と言いたくなるような場面ですが、イエスさまは憤られた。何を憤っているのでしょうか、怒っているのでしょうか?今お読みした聖書の言葉には、墓についてこのように書かれていました。「墓は洞穴で、石でふさがれていた」。ユダヤのお墓というのは、日本のお墓とは違う構造になっています。これは、イエスさまの復活の聖書の記事でもご存じの方はおられると思いますが、お墓は洞穴で、入り口を石で塞ぐのです。イエスさまは、その入り口の石を取り除けるようにと言われました。ところが、マルタはこのように答えます。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。これは、もうラザロは死んでしまい、葬っていますから、墓の入り口の石を取り除ける必要はないでしょう、ということです。
 ラザロはもう死んでしまった。私たちができること、それはラザロの死を嘆き悲しむことだけです。もうラザロは私たちのところには帰って来ない。私たちがすることは、ただ一緒に悲しむこと・・・。聖書の言葉の中にも、このような言葉があります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)。マルタ、マリアにとって、一緒に泣いてくれる人たちがいることは本当に慰めだったと思います。私たちも悲しい時には、一緒に泣く。嬉しい時には、一緒に喜ぶ。そのようにして、悲しみを分かち合うこと、喜びを分かち合うこと。慰め、励ましがお互いにあるならば、それは本当に素晴らしいことだと思います。しかし、この場面では、イエスさまは、墓を塞ぐ石の前で立ち尽くすのではなく、その石を取り除けなさい、と言われました。この後の聖書の言葉を読んでみます。
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
 イエスさまは言われました。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。ここでイエスさまは、「信じる」ということを言われました。つまり、墓の石を取り除けるというのは信じることだ、ということです。墓の石を取り除けるなら、神さまの栄光を見ることができる。そのことを信じて、墓の石を取り除けよ、と言われたのです。
 この後、何が起こったかというと、ラザロが蘇生した、生き返った、という出来事が起こったのです。イエスさまはなぜ、このようなことをなさったのかというと、ここでイエスさまは、天の神さまに祈っています。その祈りの言葉の中にはこのようなことが言われていました。「周りにいる群衆のため」、「あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるため」。ここにいる人たちが、イエスさまが神さまから遣わされたことを信じさせるためだというのです。そのためにイエスさまが行われたこと、それが、死んだラザロが蘇生した、生き返った、ということでした。

(むすび)
 イエスさまがラザロを蘇生させた、生き返らせた。この聖書の言葉を私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。それは、イエスさまが言われたこの言葉に示されています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25、26節)。このことを、ラザロの出来事を通して、表してくださったのです。ラザロは死んだ。墓の石を取り除けても何の意味もない。いいえ、そうではありません。墓を塞ぐ石、それは、死を意味します。イエスさまは、その石を取り除けなさい、と言われました。石を取り除ける。それはイエスさまが死を取り除けてくださるということです。あなたがたはそのことを信じなさい、というのです。イエスさまによって蘇生した、生き返ったラザロ。イエスさまが死んでいたラザロを生かした、というこの出来事を通して、イエスさまが教えられたことは、第一に、命は神さまが与えてくださるものということ。第二に、命はこの地上で終わりではないということ。イエスさまを信じるなら、復活の命、永遠の命をいただいて生きることができるということです。
 召天者記念礼拝で、召天者の方々の名前を読み上げました。それは、ああ、過去にはあの人がいた、この人がいた。そうやってただ思い出に浸ることではありません。その一人一人が今、復活の命、永遠の命をいただいて生きていること、神さまと共に生きていることを喜び、感謝したいと思います。そして、私たちもやがて地上の歩みを終えて、天の故郷(ヘブライ11章16節)に帰る日が来ます。その日、その時まで、天の故郷の希望を持って、神さまを見上げて、命を与えてくださる神さまを人々に分かち合っていく、お知らせしていくのです。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 悲しみの中にある人々のところに、主はおいでになり、憤られ、また涙を流されました。死がすべての終わりだと考えるその希望のない心に、主は「死んでも生きる」と語られ、復活の命、永遠の命に生きるという希望をお示しになりました。言葉によって、またラザロの生き返りという奇跡を通して示されました。
 主は私たちにも「その石を取りのけなさい」と語られます。私たちも主が言われる通り、石を取り除けて、神さまの栄光を見る者、復活の命、永遠の命を信じて生きる者にしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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