「神の僕」ペトロの手紙一2章11~17節 2026年8月23日
(はじめに)
お読みしたペトロの手紙一は、このような言葉から始まります。この書の最初の言葉をお読みします(1章1節)。
1:1 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」とあります。離散して仮住まいをしている人たちのことをディアスポラといいます。聖書の舞台であるユダヤ、その地を離れ、世界各地に移り住んでいる人たちのことをそのように呼びました。
もう一つ、お読みした言葉から分かることは、「選ばれた」とあることです。誰から選ばれたのかというと、神さまから選ばれたのです。選ばれたというのは、何かの理由があるからです。そのことが、続く1章2節に書かれています。
1:2 あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
「イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれた」とあります。「イエス・キリストに従い」ということは、お分かりになると思いますが、その後の「その血を注ぎかけていただく」というのは、どういうことでしょうか。「その血」というのは、キリストの血ということです。私たちの教会では、月に一度、主の晩餐式を行います。その時、パンと杯をいただきますが、それは、キリストが私たちを罪から救うために十字架にかけられたことを記念するものです。十字架におかかりになったキリストの肉が裂かれ、血を流された。その肉と血を象徴するのがパンと杯です。
「イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれた」。それは、キリストによって罪から救われたあなたがたが、キリストに従うために選ばれた、ということです。それはキリストによって救われたことを人々に伝えるために選ばれたということです。
(聖書から)
月に一度、ペトロの手紙一からお話ししていますが、今日お読みした聖書個所でも、離散して仮住まいしている者について触れています。ペトロの手紙一2章11、12節をお読みします。
2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
先ほどお読みした個所では、「離散して仮住まいをしている」とありましたが、この箇所では、「旅人であり、仮住まいの身」と書かれていました。「旅人」という言葉が出てきます。キリストを信じる者は、この世においては、旅人だというのです。
先週の礼拝は、召天者記念礼拝として行いました。召天というのは、天に召されると書きますが、地上の生涯を終えて、神さまのみもとに召されるという意味です。神さまのみもと、天の国こそが、私たちの故郷、本当の故郷です。葬儀の時、よく読まれる聖書の言葉があります。ヘブライ人への手紙11章の言葉です。その言葉をお読みします(ヘブライ11章13~16節)。
11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
この箇所では、キリストを信じる者について、「地上ではよそ者であり、仮住まいの者」と書かれています。口語訳の聖書では、「地上では旅人であり寄留者」となっていました。私たちは、地上では旅人、仮住まいの者です。私たちの本当の故郷は、「天の故郷」(ヘブライ11章16節)、天の国です。
今日の聖書の言葉に戻ります。11節に「旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」とありました。ここで「肉の欲」というのは、神さまと隣人には無関心で、自己中心になっている、自分のことしか考えない生き方ということです。しかし、私たちは、天の国から、つまり、神さまからこの世に、この地上に送り出された者です。この世において、この地上において、神さまの愛と義をお伝えし、生きる者だから、その使命を忘れないように、と言われているのです。
12節には「異教徒の間で立派に生活しなさい」とありました。「異教徒」というのは、まだ真の神さまを知らない人たちのことです。そこにあなたがたは遣わされた。あなたがたはその人たちに、神さまをお伝えしなさい、と言っているのです。「立派に生活しなさい」、「あなたがたの立派な行い」とあります。生活、行いということが言われていますが、これは言葉において、そして、その生活、行いにおいても神さまをお伝えすることに努めなさい、ということです。例えば、私たちは、神さまは愛であることを知っています。そのことを実際の生活の中で、行い、生き方によって表していくのです。
13節からお読みします。
2:13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、2:14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
私たちはテレビや新聞などで報道されていることを聞くと、心は痛むようなこと、怒りをおぼえることがあります。どうしたら世の中が良くなるだろうか、変わるだろうか、と考えます。ところが、今、お読みした聖書の言葉からは、「~従いなさい」、「~服従しなさい」とあることから、何も批判してはいけない、反対してはいけない、と言っているように受け取る方があるかもしれません。
しかし、15節には、「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」とあります。善を行うとありますが、それは一般的な意味の善というよりも、神さまの善、神さまの正しさということです。無批判であるとか、反対しないということではなくて、この世の中が、少しでも神さまのみ心に適ったものとなるように、神さまの愛と正しさが行われるように願い、自分たちのできることを行っていくのです。
テモテへの手紙一2章には、このようなことが書かれています(一テモテ2章1~3節)。
2:1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。2:2 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。2:3 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
ここには、王たちやすべての高官のためにも祈りなさい、ということが言われています。私たちはこの世の中が神さまのみ心に適ったものとなるように祈り、世界の国々の為政者たちが正しい政治、活動をしていくように祈っていくのです。
今日の聖書個所、ペトロの手紙一2章13節には、「主のために」と書かれていました。別の訳では、「主のゆえに」と訳されています。主のために、主のゆえに。これをもっと詳しく言うならば、イエス・キリストの愛のゆえに、ということです。これが私たちの行動原理です。すべてにおける出発点です。私たちは、自分が神さまに愛されていることを知っています。しかし、私だけが愛されているのではありません。神さまの愛はすべての人たちに向けられています。時の為政者、その人たちも愛されているのです。私たちがあの人は悪い!この人は愛せない!と思っているその人も愛されているのです。私たちはそのことをおぼえ、お互いのために祈っていくのです。神さまの愛を知り、神さまの愛を求めて生きるお互いであるように祈っていくのです。
(むすび)
今日の最後の言葉をお読みします。
2:16 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。2:17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
「自由な人」とあります。自由な人とは、何ものにもとらわれない、何ものの奴隷でもない、ということです。またキリストを信じる私たちは、罪から自由にされたことを知っています。けれども、このような言葉が続いて語られていることを忘れてはなりません。「その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず」。自由ということで、自分勝手に何をしてもいいのか、というと、そういうことではありません。もし、自分勝手、わがままということであるなら、その自由は放縦に変わってしまいます。また、「悪事を覆い隠す手だて」とありましたが、自由を求め、自由に生きているつもりが、罪の奴隷になってしまうこともあるのです。ですから、与えられているこの自由をどのように用いるかということが大事なことです。
「神の僕として行動しなさい」とあります。これこそが、自由の正しい用い方です。聖書が教える「自由な人」とは、「神の僕」だというのです。日本語の聖書では、言葉を比較的ソフトに訳していますから、「神の僕」と訳されていますが、もっとストレートに訳すなら、「神の奴隷」ということです。自由な人が、神さまの奴隷とはどういうことでしょうか?
実は、聖書が教える自由な人とは、すべてにおいて自由ということではありません。ただ一つのことに囚われているのです。何に囚われているのかというと、神さまに囚われている、神さまの愛に囚われている。それが、聖書が教える自由な人です。もっと積極的な言い方をするなら、神さまに守られている、神さまの愛に守られていると言ったらいいでしょうか。
神さまの僕として行動しなさい。その後にこの言葉が語られています。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」。これが神さまの僕の生き方です。お祈りいたします。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
あなたは私たちをそれぞれのところへと遣わしておられます。家庭、職場、それらのところへ私たちを神さまの福音の種を蒔く者として遣わしておられます。
私たちは神さまに愛されていることを知っています。しかし、私たちが出会うあの人も、この人も神さまに愛されている一人一人です。
そのことを知る時、私たちは、お互いのことを祈る者でありますように。そして、お互いが神さまの愛を知り、神さまのみ心を求めて生きるように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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