「あなたの道を主にまかせよ」詩編37編1~11節 2026年8月30日
(はじめに)
詩編の言葉を読みました。この詩編の言葉から、私たちは祈りを教えられます。祈りというのは、ただ自分の願いを空に向かって述べることではありません。私たちの祈りを聴いておられる方がおられる。その方に向かって、私たちの願いを申し上げるのです。そのためには私たちの祈りを聴いておられる方、神さまという方がどのような方であるかを知ることが必要です。聖書を読むというのは、そういう意味でも大事なことです。聖書の言葉を読み、神さまという方がどのような方であるかを知っていくのです。
(聖書から)
お読みした詩編は37編です。この詩編は全部で40節ありますが、今回は、その中の一部、1~11節から聴いていきたいと思います。ところで、詩編37編の最初のところには、「アルファベットによる詩」と書いてありました。アルファベットというと、英語では、A、B、C、D・・・と続いていきますが、ここでは、旧約聖書の言語ヘブライ語のアルファベットのことが言われています。ヘブライ語のアルファベットの順で、アレフ、ベト、ギメル、ダレト・・・と続いていきます。このように言葉の冒頭が、アルファベットの頭文字で始まるようになっている詩編が幾つかありますが、これは読みやすさとか、覚えやすさなどを工夫して編集されたと考えられます。日本語でも絵本などであいうえおの順で、「あ」は「あんぱん」、「い」は「いえ」というふうに、言葉を覚えながら読んでいくものがあります。
さて、まず詩編37編1、2節をお読みします。
37:1 【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。
37:2 彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。
悪事を謀る者、不正を行う者、そういう人たちのことで、私たちはいら立つこと、うらやむことがあるかもしれません。自分は真面目に生きているのに、どうして、あの人は、人を偽って、うまいことをやっているのか・・・。そう思うと、私たちは怒りをおぼえますが、詩編の詩人は、その人たちのことでいら立ってはいけない、うらやんでもいけない、と言います。なぜなら、その人たちは、草のように瞬く間に枯れるから、青草のようにすぐにしおれるから、というのです。
これと同じようなことが、この後の個所にも書かれています。7節以下の言葉をお読みします。
37:7 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。
37:8 怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
37:9 悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。
37:10 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。
ここにも、いら立ってはいけない、怒りを解き、憤りを捨てなさい、と言われています。私たちは、そういう人たちを裁こうとします。自分の正義の心で裁こうとします。私たちが自分の正義を突き詰めていくなら、人を裁くだけでなく、自分自身を裁いてしまうこともあります。しかし、ここで詩編の詩人が言っていることは、視点を変えよ、心の目を別のところに向けよ、と言っているのです。そのことが、次の3節以下で言われていることです。
37:3 主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
37:4 主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい
37:6 あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。
どこに視点を変えるのか、というと、神さまの方に視点を変える、神さまの方に心の目を向けるのです。「主に信頼し、善を行え」とありました。神さまを信頼しなさい、と言います。信仰ということ、神さまを信じるということは、神さまを信頼するということです。神さまは、すべてのことをご存じです。私たちの心の中のすべてをご存じです。イエスさまは、神さまのことをこう言われました。「隠れたところにおられるあなたの父」、「隠れたことを見ておられるあなたの父」(マタイ6章)。この「隠れたところ」、「隠れたこと」というのは、私たちの心の中のことであり、私たちが隠していることでもあります。誰も見ていないから、誰にも気づかれていないから・・・。そのようにして、人を偽ったり、だましたりしてしまう。しかし、「あなたの父」である神さまはすべてをご存じなのです。すべてを知っておられる、見ておられる神さまを私たちは信頼して生きる。それは、人の不正や不義にのみ、心を向け、怒りの炎を燃やすことよりも、自分自身が神さまの前に何が正しいことなのか、真実なことなのかを求めて、そのことに励むということです。
「この地に住み着き、信仰を糧とせよ」とありました。「信仰を糧とせよ」。信仰は私たちを生かすのです。信仰という管を通して、私たちは神さまとつながり、神さまから生きる力をいただくのです。「信仰を糧とせよ」という言葉は、聖書協会共同訳では「真実を育め」とあり、新改訳では「誠実を養え」となっていました。この訳では、神さまに対する信仰、真実な生き方を養いなさい、育てなさい、という意味になります。信仰生活、神さまを信じる生活とは、自分を神さまに育てていただく、養っていただく生活です。
ペトロの手紙一2章にはこのような言葉があります(一ペトロ2章1~3節)。
2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
「混じりけのない霊の乳」、これは神さまの言葉です。神さまの言葉をいただく時、大事なことは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」とありますが、これらを捨て去るように決心するということです。神さま、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口、これらのことは私には必要ありませんから、取り除いてください、と祈りつつ、神さまの言葉を「生まれたばかりの乳飲み子のように」、つまり、求める心でいただいていくのです。
4節に「主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる」とありました。「主に自らをゆだねよ」。神さまに自分自身を委ねていく、お任せしていくのです。「主に自らをゆだねよ」という言葉は、別の訳では、このようにも訳されます。「主を喜びとせよ」(聖書協会共同訳)、「主を自らの喜びとせよ」(新改訳2017)。つまり、神さまを喜ぶと訳されているのです。私たちはどうでしょうか?神さまを喜んでいるでしょうか?ある人はこう言いました。「私は神さまが私の願いをかなえてくださるなら、神さまを喜べるでしょう。でもなかなか神さまは私の願いをかなえてくださらない・・・」。
新約聖書の中にも、神さまを喜ぶという言葉が出てきます。フィリピの信徒への手紙4章4節です。
4:4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
この言葉を読むと、常に喜ぶ、いつも喜ぶことなんてできないよ!と思います。人生は喜びばかりではありません。苦しみがあり、悲しみがあり、喜べることというのは、ほんのわずかと思えることがあります。ところがここには、常に喜びなさい、いつも喜びなさい、と言われています。「主において常に喜びなさい」。ここでキーワードとなるのは、「主において」ということです。「主において」とはどういうことかというと、私たちの主であるイエス・キリストの中で、ということです。あなたがたは、イエス・キリストの中にある一人一人なのだ。そのことをいつもおぼえて喜んでいなさい、と言っているのです。
イエス・キリストの中にある私たち。イエス・キリストと共にある私たちと言ってもよいでしょう。そのことを喜ぶ。主が私たちと共におられる。この信仰、信頼が私たちを支えるのです、私たちの生きる力となるのです。そういう私たちは、主と共に歩む時、自分の願いが自分だけの願いではなくなって、他者のことにも心が開かれていきます。そして、あの人のこと、この人のことも祈るようになるのです。自分の願いが変えられていく、拡げられていくという経験をしていくのです。そのようにして、私たちは、神さまの願っておられることと一つにされていきます。だから、このように言うことができるのです。「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」。
5、6節の言葉をもう一度、お読みします。「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる」。「あなたの道」とは、私たちの人生の道、歩みということです。その一歩一歩を主に委ねていくのです。詩編37編23、24節には、このようなことが書かれていました。
37:23 主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。
37:24 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。
神さまは私たちの歩みを導いてくださいます。神さまのみ心に適った歩みへと導いてくださいます。そして、24節にありますように、私たちは時に倒れることがあります。何かに失敗することがある。病気になることがある。順調にいっていたかと思うと挫折をすることがある。しかし、それで私たちは打ち捨てられるのではない。それで終わりではない。なぜなら、「主がその手をとらえていてくださる」。「主がその手を支えてくださる」(聖書協会共同訳)。神さまが私たちをどんな時も支えてくださる、というのです。
(むすび)
今日の最後の言葉をお読みします。
37:11 貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
「貧しい人」とあります。聖書協会共同訳では「苦しむ人」、文語訳では「謙(へりくだ)るもの」と訳されていました。貧しさにある人、苦しみにある人は、自分の無力さ、弱さを知らされ、本当に信頼すべきお方を信頼する者となるのです。イエスさまはこの言葉から、山上の説教を語られたと言われています(マタイ5章5節)。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
「柔和な人々」、これは「へりくだった人々」(聖書協会共同訳)とも訳されます。自分の貧しさを知り、苦しみの中で自分の弱さを知る人は、神さまの前にへりくだり、神さまを信頼するのです。その人は地を受け継ぐ。神さまがその人をこの地で生かしてくださるのです。
「豊かな平和に自らをゆだねる」とありました。私たちは平和を求めて祈ります。具体的には、戦争のない、争いのない世界を願って祈ります。戦争がなぜ起きるのか、争いがなぜ起きるのかというと、自分の正義が原因なのではないでしょうか。自分は正しい。自分の国は正しい。でもあの人が、あの国が悪い、間違っているといって裁いてしまう。しかし、私たちが聖書から知ることは、神さまの前には正しい者はいない(ローマ3章)ということです。私たちは誰もが不完全な者であり、罪人なのです。しかし、それだけではありません。私たちは神さまから愛された者、赦された者なのです。そのことをおぼえて、互いに罪を告白し合い(ヤコブ5章16節)、赦し合い、愛し合う。それが平和を生きるということではないでしょうか。神さまとの平和、お互いの平和を求めていきましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
詩編37編から聴きました。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」(7節)という言葉がありました。すべて自分の考え、思いで動き出す私たちですが、主の前に沈黙すること、静まることが必要です。
主のみ声を聴き、主に尋ねて、そこからすべてを始める者としてください。イエス・キリストの中にある私たち、イエス・キリストと共にある私たちです。主がすべての歩みを導いてください。
キリストの平和(コロサイ3章15節)が私たちを支配しますように。神さまとの関係において、お互いの関係において平和がありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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