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「ともし火が消えないように」マタイによる福音書25章1~13節 2026年10月4日 

ともし火が消えないように マタイによる福音書25章1~13節 2026/10/ 4 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 マタイによる福音書25章の前半の個所をお読みしました。前にもお話ししましたように、マタイによる福音書24章、そして、25章というのは、イエスさまの小黙示録と言われる個所です。終末、世の終わりについて、イエスさまの弟子たちが質問された。そのことにお答えになった内容です。この25章では三つのたとえ話が語られています。新共同訳聖書では、小見出しが付いていて、どういう内容のたとえ話が語られているのかが分かります。今日お読みしました1~13節については、「『十人のおとめ』のたとえ」という小見出しが付けられています。

(聖書から)
 このたとえ話の最初の言葉をお読みします。
25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
 「花婿を迎えに出て行く」とありました。このたとえ話というのは、花婿という言葉から、結婚式、婚宴の話であることが分かります。それは聖書の舞台であるユダヤの結婚式、婚宴に例えて語られた話です。「十人のおとめ」というのは、ブライドメイド、花嫁の付添人のことです。そのブライドメイドたちが、ともし火を持って、花婿を迎えに出て行った、というのです。
 十人のおとめ、つまり、花嫁のブライドメイド、付添人について、2節には、このように書かれています。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
 十人のおとめのうち、五人は愚かで、五人は賢かった、というのです。これは何を基準に、愚か、また賢いというのでしょうか?そのことは次の3、4節の言葉から分かります。
25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
 ともし火、それは小さなランプと言ったらいいでしょうか。愚かなおとめたち、そして、賢いおとめたち、みんなともし火を持っていました。愚かと賢いの違いとは何でしょう?それは、ともし火とは別に、油の用意をしていたかどうか、ということです。愚かなおとめたちは油を用意していなかったのです。賢いおとめたちは壺に油を入れて用意していたというのです。ともし火の火が消えそうになっても、予備の油を用意していましたから、すぐに対応できます。ともし火の火を消さないですむのです。
 そして、このような話が続きます。
25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
 彼女たちは、ともし火を持って花婿を迎えに行くはずでした。ところが、花婿が来るのが遅れてしまった。もう真夜中のことだったのでしょう。「皆眠気がさして眠り込んでしまった」とあります。「皆」とあります。愚かなおとめたちだけではありません。賢いおとめたちもみんな眠り込んでしまったのです。待てど暮らせど、花婿はやって来ない。彼女たちは待ちくたびれて、疲れ果てて眠り込んでしまったのです。
 すると、「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」とあります。誰の声でしょうか?分かりませんが、その声は「花婿だ。迎えに出なさい」と叫んだ、というのです。その声を聞いたおとめたちはみんな目が覚めて、それぞれともし火を整えて迎えに出ようとした、ということです。
 愚かなおとめたちと賢いおとめたちの間で、このようなやり取りがありました。
25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
 愚かなおとめたち、彼女たちは油を用意していませんでした。花婿がやって来る間中、ともし火を灯していたのでしょう。ともし火が消えそうになっていました。けれども、補充するための油を持っていません。困った彼女たちは、賢いおとめたちに言います。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」。けれども、賢いおとめたちはこのように答えました。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」。
 いかがでしょうか?賢いおとめたちというのは、何と冷たい!そう思われたでしょうか?この賢いおとめたちの言葉をもう一度、読んでみますと、「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」とありました。「分けてあげるほどはありません」とあります。分け与えるほどの余裕はない。自分の分で精一杯ということです。そして、「それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」。「自分の分を買って来なさい」と言っています。
 この話は、イエスさまのたとえ話です。たとえ話ですから、この話を通して、イエスさまが何をおっしゃりたいのか、私たちはそのことを考え、聴き取っていく必要があります。ともし火の火を切らさないように。このことが大事なことだと言っておられるのでしょう。では、ともし火の火とは何か?いろいろな理解があります。聖霊の火であるとか、祈りの火であるとか、信仰の火であるとか、それぞれ間違いではないように思えます。
 ともし火を灯すための油は何でしょうか?私は、油とは、イエスさまのことではないかと思うのです。イエスさまが一緒でなければ、祈りはできない、祈りは続かないと思います。イエスさまが一緒でなければ、信仰生活は成り立たない、信仰生活は続かないと思います。先ほど、賢いおとめたちが油を求める愚かなおとめたちにこう言いました。「店に行って、自分の分を買って来なさい」。
 「自分の分」ということです。イエスさまを信じる、イエスさまを求める。それはイエスさまを信じている人から貸し借りするようなものではないのです。「自分の分」とありますように、自分自身が、自分でイエスさまを求める、イエスさまを信じるのです。「店に行って、自分の分を買って来なさい」。それはイエスさまのもとに行くということではないでしょうか。
 10節には、このようなことが書かれています。
25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
 愚かなおとめたちは、店に油を買いに行きました。けれども、その間に花婿が到着したため、戸は閉められた。つまり、間に合わなかった、ということです。このような話を聞くと、油が用意できていない。油が足りないと気づいたなら、急いで用意するようにしなさい!という教えのように聞くかもしれません。この後には、こういう話が続いています。
25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
 戸を開けてほしい、と願ったのに、主人はお前たちを知らない、と答えた、ということです。何と厳しい話でしょうか!
 ところで、このたとえ話ですが、十人のおとめ、愚かなおとめたち、賢いおとめたちとは何のこと、誰のことなのでしょうか?花婿というのは、イエスさまのことが言われているそうです。イエスさまが再び、おいでになって、神さまの救いのご計画を完成してくださる。だから、私たちは待っていましょう、という話です。すると、十人のおとめとは、イエスさまを待ち望む私たちのことではないでしょうか。この話の最後はこのような言葉で締められています。
25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
 花婿、つまり、イエスさまがおいでになるのは、いつなのか分からないのです。その日、その時は誰も知らないのです(24章36節参照)。だからこそ、いつも目を覚ましているように、と言われます。けれども、先ほどのおとめたちは待ちくたびれて、眠り込んでしまった、とありました(5節)。私たちも同じようなことになったらどうしたらいいでしょうか?眠り込んでしまったおとめたちに対して、叫ぶ声があった、とありました。「花婿だ。迎えに出なさい」(6節)。私たちにも、この声が聞こえてくるのです。何度も何度も眠り込んでしまいそうになる私たち。でも、この声が私たちに語りかけてくださる。そのことによって、私たちは目を覚ますのです。毎週の教会の礼拝で、あるいは教会学校で、主にある兄弟姉妹との交わりの中で、聖書を読んでいる時、祈っている時、私たちは「花婿だ。迎えに出なさい」、この声を聞くのです。あとはこの声を聞いた私たちがどうするか、ということです。イエスさま、私のともし火を灯してください。信仰の火を灯し続けてください、と祈り続けていきたいと思うのです。

(むすび)
 愚かなおとめたちがせっかく油を買いに行ったのに、戸は閉められてしまった。そこでおとめたちは必至で願います。「御主人様、御主人様、開けてください」。けれども、主人はこう言いました。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」。私たちはこのやり取りをどう考えたらよいのでしょうか?私はこう思います。花婿が来ること、すなわち、イエスさまが再びおいでになること。それは私たちにとって都合の良い時ということではない、ということです。イエスさまの時がある、神さまの時がある。私たちはそこに合わせていくのです。
 信仰、信仰生活というのはそういうものです。私たちは、イエスは主であると告白して、イエスさまを信じました。イエスさまが私の主なのです、イエスさまが私の主人なのです。ところが、それが入れ替わってしまったら、信仰とは言えなくなってしまう、イエスを主とする信仰ではなく、自分を主とする信仰になってしまいます。ともし火を灯し続ける。それはイエスを主と信じ続けることです。お祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 ともし火を灯し続けるように。それがイエスさまが私たちに求めておられることです。私たちの人生の最期の日まで、イエスさまが再びおいでになるその時まで、私たちはともし火を、信仰の火を灯し続けていくことができますように。
 イエスさまはこう言われました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15章4、5節)。
最後まで、終わりの日まで、イエスさまにつながって歩む者でありますように私たちを導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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