「目を覚ましていなさい」マタイによる福音書24章32~51節 2026年9月13日
(はじめに)
マタイによる福音書の24章から25章は、終末、終わりの日についてイエスさまが語られた内容です。人々は、戦争、飢饉、地震などの災害が来ることで、この世界はもうすぐ終わるのではないか?と恐れました。イエスさまと一緒に歩んでいたイエスさまの弟子たちも恐れました。そこでイエスさまの弟子たちは、イエスさまに終末、終わりの時はいつなのでしょうか、その時には、どんなことがあるのでしょうか、と尋ねました(3節)。イエスさまがそれに答えて語られたことが、ここに書いてあることです。
(聖書から)
今日お読みした聖書の言葉では、イエスさまは、まず、いちじくの木の話をなさいました。
24:32 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。24:33 それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
「いちじくの木から教えを学びなさい」と言われました。イエスさまは、人々にお話をする時、人々にとっては身近なもの、身近なことからお話しになりました。人々が理解できるように、分かるように、とたとえを用いてお話しになったのです。私たちも、人々に、聖書のことや、イエスさまのことをお話しする時、イエスさまに倣ってお話しできたらと思います。そのために私たちが心がけておくことは、私たちの生活の中で、神さまは私たちに何を語っておられるのか、神さまの愛や恵みとは、どういうものであるのか、考えてみることです。聖書の言葉というものは、机上だけでなく、私たちの歩みの中でこそ、本当に分かってくるものだからです。そして、聖書の言葉が私たちを生かす言葉として導くのです。
イエスさまは、いちじくの木の枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる、と言われました。それと同じように、「これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と言われました。「これらすべてのこと」とは、31節までに書かれていたことです。マタイによる福音書24章3~14節には、「終末の徴」という小見出しがありますように、終末の徴のことが言われていました。続く15~27節には、「大きな苦難を予告する」という小見出しがありますように、大きな苦難のことが言われていました。終末の徴、大きな苦難というのは、人の子、つまり、イエスさまが再びおいでになる日が近づいているということなのです。
そして、イエスさまはこのように言われました。
24:34 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。24:35 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」。「この時代」というのは、「この世代」(岩波訳)、「この世」(田川訳)とも訳されます。イエスさまは、いつこの世は滅びるだろうか?と終末、終わりの日を心配していた人たちに向かって、「この時代は決して滅びない」と言われたのです。この時代は滅びない、とは、あなたがたは滅びない、と理解してもよいと思います。あなたがたは滅びない、と言ってくださっている。これは本当に嬉しい言葉です。なぜ、イエスさまは、このようなことを言われたのでしょう?なぜなら、イエスさまは、あなたがたが(つまり、私たちが)滅びないように、そのためにこの世においでになったからです(ヨハネ3章16,17節)。
イエスさまはさらにこのようにも言われました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。 「天地」というのは、世にあるもののことです。皆さんは、こういう言葉を聞いたことがあると思います。「形あるものはいつか壊れる」。形あるもの、この世にあるもの、それは、いつか壊れる、永遠ではない。ところが、私たちは永遠ではないものを追い求めているようなことがあるのではないでしょうか。
一方、イエスさまはこのようなことも言われました。「わたしの言葉は決して滅びない」。「わたしの言葉」、これは神さまの言葉のことです。神さまの言葉は決して滅びない。神さまの言葉は永遠、神さまご自身が永遠ということです。このイエスさまの言葉と同じ内容の言葉が、旧約聖書・イザヤ書にもあります(イザヤ書40章8節)。
40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。この言葉は新約聖書・ペトロの手紙一1章24、25節にも引用されています。そこでは、少し違った言葉で、「主の言葉が永遠に変わることがない」となっています。永遠に変わることがない神さまの言葉、その言葉を信頼して生きる人は、神さまの与える永遠の命に生きることができるということが言われています。永遠の命と言いましたが、私たちの命というのは、限られています。私たちの命、私たちのこの地上の命、この世における命は限られています。限られた命ですから、私たちはいつの日か死ぬことになります。しかし、イエスさまは、こんな不思議なことを言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11章25、26節)。死んでも生きる。それは、私たちには永遠の命が与えられているから、地上で死んでも終わりではないということです。私たちは、天の国で、神さまのもとで生き続ける者とされるのです。
36節をお読みします。
24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
「天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」とあります。その日、その時。つまり、終末、終わりの日のことです。イエスさまはその日のことを人の子が来る日、イエスさまが再びおいでになって、救いを完成する日であると言われました(30、31節)。しかし、その日、その時のことを天使たちは知らないというのです。そして、子も知らないというのです。ここで子というのは、神の子であるイエスさまのことです。そのイエスさまご自身も知らないと言われました。イエスさまも知らない。それは、あなたがたには、知らされていないこと、知る必要のないことという意味です。父だけが、神さまだけがご存じであるということです。
私たちには、知らされていないこと、知る必要のないこと、そのことについて、パウロという人はこう言っています(一コリント13章9~12節)
13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分・・・」(一コリント13章9節)とあります。私たちの知っていること、私たちの知識というのは、ここに一部分とあるように、世界中の様々な知識の中のほんの一部分に過ぎません。むしろ、私たちは知らないことだらけです。そういう私たちの今の状態というのは、パウロが「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(同12節)と言っているようなものだというのです。私たちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ているような状態です。しかし、「今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」とあります。主が来られる時、本当に知るべきことが知らされる。今は知らされていなかったことも、その日には知るようになるというのです。そのことをおぼえて、世にいる間は、知らされていないこと、分からないことは、無理に知ろうとして、勝手な解釈をしたりしないで、神さまにお任せしていくのです。
今日の聖書の言葉に戻ります。37節以下で、イエスさまが語られていることは、人の子が再び来ることは、私たちにはいつなのか、分からないこと、知らされていないことであるから、だからこそ、目を覚ましていなさい、ということです。目を覚ましていなさい、とは、いつでも、その日、その時を迎えることができるように、イエスさまをお迎えすることができるように備えていなさい、ということです。42節と44節をお読みします。
24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
(むすび)
45節から、イエスさまは人の子が来ることについて、たとえ話で語られました。
24:45 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。24:46 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。24:47 はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
このたとえ話で、忠実で賢い僕というのは、「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕」、「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕」ということですが、それはいつでも私たちの主人、主である神さまの言葉を信頼し、それに忠実に従って生きるということです。それが、いつ主がおいでになっても良いように、備えて生きる生き方です。
ある牧師先生は、目を覚ましていなさい、と言われても、主が再び来られるということを日々、意識して歩むように、と言われても、何か漠然としていて、なかなか難しいことだと言われました。そこで、その先生は、こう考えることにしたのだそうです。それは、自分の地上における人生の終わりを意識して歩むということです。生きている間、自分ができることは何だろうか。そういうことを考えながら日々を歩んでいるというのです。すると、今まで以上に、一日一日を大切に生きるようになった、自分の生き方が整えられていった、と言われました。私たちも神さまから与えられた命を祈りながら、み言葉に聴きながら、一日一日を大切に歩んでいきたいと思います。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
終末、終わりの日について、主は、その日、その時は、主が再び来られ、救いを完成する時であるとお答えになりました。しかし、その日、その時は私たちには知らされていません。そういう私たちは、一日一日、主の言葉に聴きながら、与えられた命を、人生を最善に生きることを求める者にしてください。欠けだらけの、不完全な私たちですが、主に赦されていること、愛されていることをいつも思い起こし、感謝と喜びをもって歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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