キリストにある一致(エフェソ4章1〜16節)
神様から招かれた私たちはそれにふさわしく歩むようにと語られています(1節)。そのふさわしい歩みとはどういうものでしょうか。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(2、3節)とあります。「寛容」と訳されている言葉は岩波訳(保坂高殿訳)では「鷹揚さ」で、これは神様が罪を犯した者に対してすぐに怒りを表さず、御自身に立ち返るのを待つという意味があるそうです(岩波訳・注)。
ふさわしく歩むことについて、「〜努めなさい」と言われていることにも注意したいと思います。信仰はもちろん恵みであり、与えられたものですが、努力しないということではありません。すべて神様の力によるものです。しかし、私たちの側も積極的に求め(マタイ7章7節「求めなさい。そうすれば、与えられる」)、努めるのです。仕方なく、いやいやではなく、救われた喜びから努めるのです。
「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(15節)は岩波訳では「〜キリストに向かって成長を遂げるまで[続く]」となっています。岩波訳で説明的に付加されている「続く」という言葉が印象的です。そうです、私たちの信仰の成長の歩みは現在進行形。生涯続いていくものなのです。キリストに向かって成長を遂げるまで続いていくのです。
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