【週報巻頭言】2022年7月3日 光としておいでになった方(マタイ4章12~17節)
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ4章14~16節)
ガリラヤのことが「異邦人のガリラヤ」と言われています。ガリラヤは、神の民を自称するユダヤ人からは、さげすまれていたところでした。異邦人が多く住んでいたところであり、ユダヤ人と異邦人との混血の人たちが多くいたことから、ガリラヤの地に住む人たちは純粋ではない、純血ではない人たちとして低くみられ、「異邦人のガリラヤ」と言われていました。しかし、その地にイエスさまは住まわれたのです。そして、そのガリラヤから、光を見ることができた、光が射し込んだ、とイザヤ書は語っています。さげすまれていた、低くみられていたガリラヤから、福音宣教は、イエスさまの救いのみわざは始まったのです。
ところで「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」とは、誰のことでしょうか?ガリラヤの人たちのことと言えるでしょう。ガリラヤの人たちに光が与えられたのです。しかし、それだけではありません。「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」、それは私たちのことでもあるのです。イエス・キリストを知らない時、私たちは罪と死の支配にありました。そういう私たちのところに主は光としておいでになったのです。
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイ4章17節)
イエスさまの福音宣教の第一声はこの言葉でした。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。悔い改めるというのは、方向転換するということです。生き方を改めるということです。自分の方を向いて生きていた私たちは神さまの方を向いて生きるのです。神さまが私たちに求めておられることは何か、そのことをみ言葉に聞きながら歩む生き方です。
「天の国は近づいた」とありました。天の国、天国というと、一般的には死んだ後に入るところと考えられることが多いですが、聖書が示す天の国は、天の国は近づいた、とあります。これは救い主イエス・キリストが私たちのところにおいでになった、ということです。ですから、私たちは、私たちのところにおいでになったイエスさまを私たちの人生に受け入れるだけでよいのです。イエスさまを受け入れるならば、今、私たちは罪と死の支配から、天の国に生きる者、神さまの愛と義に生きる者へと導かれるのです。それが福音です、喜びの知らせです。イエスさまを受け入れ、イエスさまと共に歩みましょう。
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