だれがふさわしいでしょうか(二コリント2章12~17節) 【週報巻頭言】2026年5月24日
神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。(二コリント2章14~16節)
「キリストの勝利の行進」が書かれていました。キリストの勝利の行進に、キリストを信じる者は連なることができるのです。これは、戦争に勝利した勇敢な兵士たちを連想させます。私たちも、キリストの福音を宣べ伝える兵士として、勝利の行進を歩むのでしょうか。いいえ、私たちは、兵士というよりも、キリストに囚われた捕虜なのです。なぜなら、私たちが勝利したのではないからです。私たちではなく、キリストが勝利したのです。キリストが十字架にかかり死なれ、三日目に復活された。それはキリストが罪と死に打ち勝たれた、勝利されたということです。私たちはキリストに白旗を上げた者、キリストに降伏した者です。私たちは、キリストに出会う前は、罪に負けていた者、罪に囚われていた、罪の虜でした。そういう私たちでしたが、キリストに出会い、キリストによって罪から救っていただきました。私たちは、今や、キリストに囚われた者、キリストの奴隷、キリストの僕として生きるのです。
この箇所では、キリストの勝利の行進が、ローマの軍隊の行進の様子をイメージして表されているようです。ローマの軍隊は、凱旋した兵士たちが、観衆から香を振りまかれて、捕虜を引き連れて意気揚々と行進するのです。しかし、キリストの勝利の行進というのは、それとは違います。奇妙な光景に映るかもしれませんが、先頭には十字架を背負い、足元をふらつかせながら歩くイエスさまの姿があります。そして、その後に私たちが続くのです。「わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」とありました。私たちは、キリストの香りを漂わせる者とされたというのです。パウロは、「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」と言っています。「だれがふさわしいでしょうか」というのは、誰もふさわしい者はいない、ということです。私たちは、誰一人、この務めにふさわしい者ではないのです。しかし、そういう私たちを主は用いてくださったのです。これは驚くべきことです。だから、パウロは、「神に感謝します」と言ったのです。
この記事へのコメントはありません。