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「魂の牧者、監督者のところへ戻ろう」ペトロの手紙一2章18~25節 2026年9月20日

魂の牧者、監督者のところへ戻ろう ペトロの手紙Ⅰ 2章18~25節 2026/ 9/20 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 お読みしたペトロの手紙一は、ユダヤから各地に散らされていたキリストを信じる人たち(1章1節)に向けて書かれたものです。その人たちは、神さまによってその地に導かれたと信じて、福音を伝えていきました。私たちもそれと同じく、神さまからそれぞれのところに散らされている者ということが言えるのではないかと思います。イエスさまのたとえ話の一つに、種を蒔く人の話があります(マルコ4章1~9節)。種を蒔く人が蒔いた種は、それぞれ道端に蒔かれたり、石だらけのところに蒔かれたり、茨の中に蒔かれたり、良い土地に蒔かれたり、という話ですが、神さまは私たちのことも福音の種を蒔く者、福音を伝える者として遣わされるのです。福音を伝えても、なかなか実を結ばない、伝わらないということで、私たちは苦闘するわけですが、すぐに結果を出そうということよりも、与えられた使命をしっかりと果たしていくことが大事なことだと思います。

(聖書から)
 今日お読みした聖書個所は、ペトロの手紙一2章18~25節でした。この箇所は、新共同訳聖書では「召し使いたちへの勧め」となっています。召し使い、私たちの普段の生活ではめったに使うことがない、聞くこともない言葉です。別の訳では、奴隷とか、僕となっています。おそらく、私たちの住んでいるこの国では、召し使い、奴隷という立場や仕事の人はいないと思います。けれども、そういう環境、状況に置かれている人はいるかもしれません。召し使い、奴隷というのは、主人に所有された者、支配されている者ということです。
 この手紙が書かれた時代、地域、ギリシャ、ローマでは、奴隷という立場の人たちは人口の半分ほどだったということです。その多くは戦争で負けた国の人たちで、勝った国に征服された、支配された人たちでした。そういう立場の人たちの中に、キリストを信じる人たちがいました。そこで、その人たちに向かって、この手紙を書いたペトロが語っているという内容です。まず、18節をお読みします。
2:18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。
 召し使い。原語では、奴隷とも訳せる言葉ですが、家庭で主人に仕えていた奴隷ということで、少しソフトに訳して、召し使いとしたのでしょう。「心からおそれ敬って主人に従いなさい」とあります。それも「善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」とあります。「善良で寛大な主人」に対しては、「心からおそれ敬」うことができるかもしれません。尊敬できる人、立派だなあと思える人に対しては、何の努力もなく、「心からおそれ敬」うことができるかもしれません。けれども、「無慈悲な主人」に対しては、どうでしょうか?「無慈悲な主人」という言葉は、「気難しい主人」(口語訳、聖書協会共同訳)、「意地悪な主人」(新改訳2017)とも訳されます。そういう人に対して、「心からおそれ敬」うというのは、とても難しいことだと思います。
 ところで、この「心からおそれ敬」うという言葉の「おそれ」というのは、原語では、畏怖、畏れ敬うという意味の言葉が使われています。この畏れというのは、人間に対するというよりも、人間を超えた存在に対して、つまり、神さまに対する畏れということです。そうすると、ここで言われていることは、神さまに対する畏れから、主人に従いなさい、ということになると思います。神さまが、この人を私の主人として与えてくださったから、私はこの主人に従います、ということです。
 それにしても、「無慈悲な主人」、「気難しい主人」、「意地悪な主人」に従うことは、とても大変なことです。ですから、続いて、このような言葉が語られています。
2:19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。
 「不当な苦しみ」とあります。もし、自分が何か間違いやミスを犯したなら、苦しみを受けるのは仕方がないと思うでしょう。しかし、自分が最善を尽くして、一生懸命、主人に従ったのに、不当な苦しみを受ける。なぜ、こんな苦しみを受けなければならないのか・・・。そう思うと、大変辛い思いがします。そういう場合はどうするのかというと、このような言葉が続いています。「神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐える」。神さまが望んでおられることだとわきまえて、我慢して苦痛に耐えていく。どうでしょうか?これもなかなか難しいことです。
 別の訳の聖書を幾つか読み比べてみましたら、「神がそうお望みだとわきまえて」というところが、「神の前における良心のゆえに」(新改訳)と訳されているものがありました。神さまの前における良心。これは、こんなふうに考えることができると思います。神さまの前に何が良いことなのか、正しいことなのか、そのことを考えてみるということです。
 これは、召し使いだけのことではありません。私たちもこの世の中、社会に生きる者ですが、職場や家庭など、いろいろな人間関係の中で、時に苦痛に耐えなければならない状況に置かれることがあると思います。その時に、私たちは、み言葉に聴いてみる、祈ってみるのです。そして、神さまの前に何が良いことなのか、正しいことなのか、考えてみるのです。
 この後には、「それは御心に適うことなのです」とありました。これは、直訳的には、「これは恵みだからである」(岩波訳)と訳されます。恵み、神さまの恵みだというのです。苦しみに遭い、耐えることが恵み。なぜ、そんなことが言えるのでしょうか?
 次の20節の言葉を読んでみます。
2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。
 後半の言葉、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」。この「これこそ神の御心に適うことです」というのは、直訳的には、「これこそ神のもとでの恵みだからである」(岩波訳)と訳されます。善を行うことで、あるいは神さまに従うことで苦しみを受ける。私たちは、善いことを行うなら、神さまに従うなら、自分の身に善いことが起こると考えるかもしれません。確かに善いこともあるでしょうが、そうでないこともあります。そういう時、私たちは、何と不条理なことか!と思うかもしれませんが、それも神さまの恵みだ、というのです。
 繰り返しますが、なぜ、善いことをして、神さまに従って苦しみに遭うこと、耐えること、それが神さまの恵みだと言えるのでしょうか?そのことが、21節以下に書かれています。
2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
 善いことを行うことで、神さまに従うことで苦しみに遭われた方のことが言われています。それは誰のことかというと、イエス・キリストのことです。キリストを信じるあなたがたは、今、苦しみに遭っているけれども、苦闘しながら歩んでいるけれども、それはキリストという模範に倣って、歩んでいることなのだ、というのです。苦しいことは辛いことだし、嫌なことです。けれども、その苦しみを通して、私たちはキリストと共に歩んでいる。それが恵みなのです。
 「「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」とあります。罪に対して、罪で返すことはなさらなかったのです。悪に対して、悪で返すことはなさらなかったのです。すべてを正しくおお裁きになる方、神さまにお任せになった、というのです。
 そればかりか、イエスさまは、この世の罪のすべてを引き受けられました。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
 罪とは、神さまから離れた状態、生き方です。愛すること、赦すことを求めない、望まない生き方です。罪とは、自分を神とすることです。自分が神のようになって、人を裁き始める・・・。ここに「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」とあります。イエスさまの傷。それは十字架におかかりになって受けられた傷です。その傷によって、私たちは癒された、とあります。癒された、とありますが、私たちにも傷があるというのです。どういう傷でしょうか?ある牧師先生は、このように言われました。「私たちは、罪を犯すことで、相手を傷つけるだけでなく、自分自身を傷つけることにもなる。罪を犯すことで、愛のないことを行うことで、愛さないことで、私という人間に傷がついてしまう。私の人格に傷がついてしまうというのです。そして、病んでしまう」というのです。
 イエスさまが、群衆をご覧になった時のことが書かれている聖書の言葉が印象的です(マタイ9章36節)。
9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
 「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て」とあります。これはイエスさまから見た群衆の姿です。もしかすると、群衆はそのようには思っていなかったかもしれません。「私は大丈夫」、「私は何も問題はない」。もしも、イエスさまが一人一人にお尋ねになったら、このように答えたかもしれません。私たちも同じように答えるかもしれません。しかし、イエスさまは人々の心を見ておられました。傷つき、病んでいる姿を見ておられました。イエスさまは、私たち人間の本当の姿を知っておられるのです。だから、イエスさまは「深く憐れまれた」のです。
 イエスさまは、人々が罪によって受けた傷を癒すため、ご自分が傷をお受けになりました。それが十字架です。

(むすび)
2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
イエスさまが十字架にかかってくださった。そのことによって、私たちの傷が、罪によって受けた傷が癒されたのです。イエスさまの十字架は私のためだった。私を愛するためにご自分の命をささげてくださった。この私のため・・・。そのことを知る時、そのことを受け止めていく時、私たちの傷は癒されるのです。愛が人を癒すのです。その私たちについて、聖書はこのように語ります。「今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来た」。「魂の牧者」、「監督者」とは、イエス・キリストのことです。私たちはイエス・キリストのところへ戻ってきたのです。
今日の説教題は「魂の牧者、監督者のところへ戻ろう」としました。それは、キリストが私たちのためになさったこと、私たちの傷を癒してくださったこと、そのことを信じて、魂の牧者、監督者である主イエスのもとへ行こう、という意味でこの題を付けました。私を罪から救ってくださった。私の傷を癒してくださった。そのことを信じて、主のもとへ行こうではありませんか。お祈りします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 私たちも神さまの僕として、この世にあって生きる者として召されています。
いろいろな人間関係がありますが、その中で、何が神さまの前に善いことなのか、正しいことなのか、み言葉に聴きながら考え、善き歩みをさせてください。
 私たちに先立ち、私たちの模範として歩まれたイエスさまの後に従う者としてください。十字架によって、私たちを罪から救い、新しく生きる者へと、主と共に歩む者へと導いてくださったことを喜び、生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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