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この十字架によって(ガラテヤ6章11〜18節)

ガラテヤの信徒への手紙6章14節の後半には「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」とありました。イエス・キリストが十字架におかかりになった。このことによって、私たちの生き方、価値観、それらはガラッと変えられた、というのです。今までは人の目や人の評価を求めて生きてきた。しかし、もうそういうことを求める生き方はやめる、しない。
私たちがなぜ、人の目、人の評価が気になるのかというと、自分という人間がどのような人間、どの程度の人間であるかを決める基準を人の目、人の評価に置いているからです。ですから、人からほめられたり、良く言われたりすると、自分という人間はなるほど、それほどの人間だ、と喜ぶ。その反対に、人からけなされたり、悪く言われたりすると、自分という人間はどんなにダメな人間であるか、と悲しむ。そのようにして、人の目、評価で一喜一憂しながら生きているのが私たちではないでしょうか?
しかし、「この十字架によって」、イエス・キリストの十字架を私に与えられた救いと信じた今はそれとは違う。私の生きる基準は人の目や評価ではない。私の生きる基準はイエス・キリストの十字架です。神様のみ心は何か?それを求めて生きる。神様の前に自分は今日をどう生きてきたか?人ではない、神様に問われながら生きるのです。問われながら、というと、窮屈に感じたり、脅迫的な思いがするかもしれませんが、神様に問われながら、というのは、もっと言いますと、問われながら、しかも、赦されながら、と言ったらよいでしょうか。
神様に問われるというのは、神様には私たちのすべてを知られているわけですから、何も言い訳も、ごまかすこともできないわけです。神様の前に私たちは自分のありのままを知られています。しかし、神様は、それでもあなたは赦されている。それでもあなたはやっていける、生きていくことができる。なぜなら、私はあなたを愛しているし、あなたと共にいるから、と私たちに語られるのです。

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