神の喜ばれること(ヘブライ13章7〜16節)
「善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」(ヘブライ13章16節)
「善い行いと施し」、これは特にキリスト教でなくても、一般的にも納得するような教えのように思えます。けれども、まず、この「施し」ということに注意してみたいと思います。貧しい人への施し、困っている人たちに施しをする。大事なことですが、この言葉が聖書協会共同訳では別の訳として「交わり」と訳すことができると紹介されています。また新改訳2017では「分かち合うこと」と訳されています。聖書が教える施しというのは、交わり、また分かち合うことというのです。それはどういうことかというと、私たちはみんな神様から生きるために必要なものを神様から与えられているということです。ですから、本来は私のものと思っているもののすべては神様のものです。ですから、私のものの中から何かを恵んでやる、という態度であってはならないのです。すべてのものは神様のもの、私も神様から生きるために必要なものとしてあれを、これを与えられている。その感謝から、人々と分かち合う。貧しい人たち、苦しみにある人たちと分かち合う。それが聖書が教える施しです。
善い行いというのも、神様が私に善いことをしてくださったから、それに倣って、私も善い行いをする。それが聖書が教える善い行いです。エフェソの信徒への手紙2章10節にはこう書かれています。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」。ここには私たちとはどういう存在であるかということも言われています。「わたしたちは神に造られたもの」とあります。聖書協会共同訳と新改訳2017では「私たちは神の作品」とあります。神様に造られた私たち、神様の作品である私たちは神様の喜ばれることを求めて生きるのです。
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