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【巻頭言】2020年3月29日ありのままで主に出会う(マルコ5章21~43節)

ありのままで主に出会う(マルコ5章21~43節)
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(マルコ5章22、23節)
会堂長ヤイロがイエス様を見ると、その足もとにひれ伏してしきりに願った、というのです。それが自分の娘の癒しを願ったということです。ここにヤイロという人がどういう立場、仕事をしていた人であったかが記されています。会堂長というのは、ユダヤの会堂を管理する人であり、また会堂で礼拝を行なうわけですが、そのために準備をする人でした。この仕事はユダヤ人の間でも信頼されている長老たちの中から選ばれた人であったということです。聖書の舞台であるユダヤにおいては、社会的地位の高い人と言ってもよいと思います。その会堂長ヤイロがユダヤ人の間でいったいこの人はそういう人なのだろう?と思われていたイエス様の足もとにひれ伏した、というのは驚くべきことだったのです。
ヤイロは自分の娘のことで切羽詰まっていた。だれか娘を助けてほしい!そういう思いから、このような行動に踏み切らせた、ということも考えられます。このようなヤイロの姿を知る時、私たち人間は病とか、死とか、そういう人間の生命の、あるいは存在の根本的な部分と言ったらよいでしょうか、そういう部分に向き合わされていくと、自分の立場やプライドにこだわっていたりもしておれなくなる。裸の状態と言ったらよいでしょうか、その状態で、ヤイロはイエス様にぶつかっていたということが言えるでしょう。
信仰というのは、そういうものだと思います。創世記3章に「初めの人間」であるアダムとエバが神様から禁じられている木の果実を食べた、という場面があります。それを食べると、善悪を知る者となる、ということでしたが、蛇にそそのかされて、彼らはそれを食べます。するとどうなったかというと、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り」(創世記3章7節)とありますが、神様の前で彼らは裸だったのです。神様の前にそのまま、ありのままであったのに、それが裸ではいられなくなった。いろいろな兜や鎧を着て生きるようになった。私たちもそうです。自分を良く見せようと一生懸命、兜や鎧を着けることに励んでいる。神様の前でもそれを着けたままでいる。信仰というのは、神様の前に裸の自分、そのままの自分で出会っていくことです。そこで知らされることは、兜や鎧が自分を守るのではない、生かすのではないということです。神様が自分を守ってくださる、生かしてくださるということです。

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