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【礼拝説教】2021年10月17日「十字架のキリストを伝えよう」

2021年10月17日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「十字架のキリストを伝えよう」コリントの信徒への手紙一2章1~5節

聖書―コリントの信徒への手紙一2章1~5節
(はじめに)
 牧師として、礼拝などで聖書のメッセージを語る時、気をつけていることがあります。それはなるべくキリスト教の専門的な言葉を使わないで、普通の言葉を使うということです。しかし、私の力不足で、なかなかそのようにできないことがありますが、できるだけ、多くの方々に、キリスト教の信仰に生きること、聖書の言葉に生きることがどういうことであるかが伝わるようにと願って、少しでも、聞く人の心に届く言葉を、と努めているつもりです。
 今日お読みしました聖書の言葉の中にも、意味が分かるように、と努力して翻訳したと思われる言葉があります。1節の「神の秘められた計画」という言葉です。この言葉は元の言葉、ギリシア語では、ミュステリオンという言葉です。何か聞いたことがある言葉だと思われた方があるかもしれません。英語のミステリーという言葉、これはミュステリオンが語源だそうです。
 ミステリーと言いますと、ドラマや小説でよく聞きます。神秘とか、不思議という意味です。この「神の秘められた計画」という言葉は、幾つかの聖書の翻訳では、「神の奥義」とか、「神の神秘」と訳されていました。それが私たちの教会で使用している新共同訳聖書では、「神の秘められた計画」と訳されました。神さまの秘められた計画、それは何でしょうか?そこから話を始めていきたいと思います。

(聖書から)
 もう一度、1節をお読みします。
2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
 コリント教会の人たちにパウロは語りかけます。パウロはあなたがたのところへ行った時、神さまの秘められた計画を宣べ伝えるのに、優れた言葉、知恵を用いることはしませんでした、と言っています。神さまのミュステリオン、神さまのミステリー、神さまの神秘・・・。それを秘められた計画と訳してありますが、秘められた、というのは、私たち人間に対して、秘められていた、あるいは、隠されていた、ということです。ではわざわざ秘めておく、隠しておく必要があったのでしょうか?いいえ、そんな必要はありませんでした。
 このコリントの信徒への手紙一の1章には、こういうことが書いてありました(1章21~24節)。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
 お読みしました聖書の言葉には、何度か「愚か」という言葉が出ていました。愚かなこと、馬鹿らしいこと、つまらないことと言ってもよいでしょう。何が愚かなことかというと、「十字架につけられたキリスト」、これが愚かなことなのです。教会に来ると、十字架、十字架と牧師は言います。何を言っているのかと聞いてみると、イエス・キリストは十字架にかかって死んだ。何のために死んだのか、というと、私たちの罪のために死んだと言う。おかしな話だなあ、変な話だなあ。初めて、この話を聞いた人はそんなふうに思うかもしれません。二千年も前の、日本とはまったく関係のないユダヤで十字架にかかって死んだイエスという人とこの私に何の関係があるのでしょう?何の関わりがあるのでしょう?イエスさまが十字架にかかって死んだ話を聞いて、何と愚かな話なのだろうと思われる人がほとんどではないでしょうか。
 神さまの秘められた計画。それは神さまが私たちに対して、秘められた、とか、隠された、ということではないのです。私たち人間には、理解できないこと、信じがたいこと。だから、神さまの方から秘められた、隠されたのではなく、私たち人間の方から、そんなことはありえません、私たちには関係ありません、と受け付けなかった、敬遠してしまった。私たち人間の側で、神さまの秘められた計画にしてしまった、ということです。
 聖書を読んでみますと、素晴らしい教えだなあ、と思う箇所は幾つもあります。キリスト教は十字架の話はしないで、その素晴らしい教えだけを伝えれば、もっと伝道が進んでいくのに、と思われる方があるかもしれません。でも、キリスト教はイエスさまの十字架の出来事を伝えることにこだわります。このコリントの信徒への手紙を書いたパウロもその一人でした。1、2節を読んでみます。
2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
 パウロは優れた言葉や知恵を用いなかった、と言っています。哲学者の誰々の言葉を引用するとか、人生の教訓とか、そういう言葉を用いるなら、ああ、良い話が聞ける、と人々が集まってきたのではないでしょうか。でも、パウロはこう言っています。「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」。十字架につけられたキリストを宣べ伝えることに私は努めてきた、と言っています。
 ところで、十字架につけられたキリストというのは、どういう意味でしょうか。イエス・キリストは十字架につけられたまま?いやそんなはずはない。十字架にかかって死んで、葬られ、三日目に復活された。それが聖書の教えるキリスト教の大切な教えです。それなのに、ここには、十字架につけられたキリストとあります。
一つの聖書の言葉を読んでみましょう。ペトロの手紙一2章21~24節です。
2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
  十字架につけられたキリスト。その意味がここに書かれています。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」。この方は私たちのために苦しみを受けられました。私たちも人生の苦しみがあります。どうして?なぜ?不条理とも思えるような苦しみに遭うことがあります。イエスさまが十字架におかかりになった、というのは、そういう私たちの苦しみをイエスさまも受けられた、ということです。
そして、もう一つ、大事なことが書かれています。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」。イエスさまが十字架にかかったのは、私たちの罪を担ってくださるためでした。そのことによって、私たちは罪に対して死んで、イエスさまと一緒に新しい人生を生きる、神さまの愛と真実を求めて生きる者とされた、ということです。
イエスさまの十字架の意味がお分かりになったでしょうか?イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架におかかりになった時には、どうしてイエスさまが十字架におかかりになったのか分かりませんでした。しかし、イエスさまが復活され、弟子たちに出会ってくださり、語られた言葉を聞いて、弟子たちは十字架の意味が分かるようになりました。その言葉が聖書に書かれたのです。続いて、3節以下をお読みします。
2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
 パウロは自分のことをこう言っています。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」。イエスさまを信じていたら、いつも元気で、恐れも何もない・・・。クリスチャンというと、そういう人のことを考えるかもしれませんが、みんながみんな、そういう人ばかりではありません。パウロという人は重い持病を抱えていたと言われます。またいろいろな試練などで心が沈むようなこともあったことでしょう。日本のキリスト教会の牧師で説教者としてもよく知られた先生がおられます。この先生が引退されるときに、ご自分がうつ病に苦しみながら、牧師の務めを続けてきたことをお話しされました。これはパウロの話と重なります。続く4節には「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした」とありますが、病の中にあっても、弱さをおぼえる時も、神さまが自分を助け、働きを導いてくださったことを語っています。

(むすび)
 今日の最後の言葉には、「それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」とありました。パウロは自分が知恵ある者だから、とか、雄弁だから、とか、そういうことによって福音宣教者の務めを続けてきたのではない、と言っています。衰弱し、恐れに取りつかれ、不安にあった・・・。そのような中にあっても、神さまがこの私を支えてくださった。神さまの力によって、働きを続けることができた。あなたがたは私ではなく、この私を用いてくださった神さまを見てください、神さまの力を知ってください、と語っているのです。
 神さまのみ子であるイエス・キリストは私たちの苦しみをご存じです。私たちの人生の苦しみを一緒に担い、歩んでくださっているお方です。イエス・キリストは私たちを罪、すなわち、自己中心の生き方から解放してくださるために十字架にかかり、愛と真実に生きるように導いてくださいました。復活されたイエスさまと歩むことができる幸いを感謝し、喜びたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
 使徒パウロは、十字架につけられたキリストを伝えることに努めました。それは自分が十字架のキリストによって生かされてきたからでした。
 私たちの苦しみをすべて知られ、一緒に受けられ、私たちを罪から解放するために十字架におかかりになられたイエスさまの救いのみわざを感謝します。
 神さまの救いのご計画が私たちの肉の知恵、力によって、秘められ、隠されることなく、信仰の目で見ること、知ること、そして、信じることができるように神さまの力によって導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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