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【礼拝説教】2021年2月7日「神の国に入る者」

聖書―マルコによる福音書9章42~50節
(はじめに)
 今日お読みしました聖書の箇所に「神の国」(47節)という言葉が言われていました。神の国とは何でしょうか?お読みしました聖書の箇所はマルコによる福音書でしたが、マタイによる福音書の方では、神の国が「天の国」となっています。天の国というと、今、私たちの教会で使用している新共同訳聖書の前に使用していた口語訳聖書では「天国」となっていました。天国というと、おそらく、一般的に考えられているイメージ、死んだら行くところと考えられるので、新共同訳聖書では天の国と訳したのだろうと思います。
 新共同訳聖書の後ろの方に付録があって、その付録の一つに「用語解説」というものがあります。もし、お開きになれる方はその中の「神の国」という項目をご覧いただきますと、神の国、天の国というのは、「場所や領土の意味ではなく、神が王として恵みと力とをもって支配されること。イエスが来られたことによって、既に始まっているが、やがて完全に実現する新しい秩序」とあります。神の国というのは、神さまがその恵みと力をもって支配されることというのです。イエスを主と信じるなら、私たちは今、神の国を生きる者とされるのです。

(聖書から)
 さて、今日の聖書の箇所を見ていきましょう。小見出しを見ると、「罪への誘惑」とあります。罪というのは、的外れという意味で、神さまから離れた生活、生き方ということです。聖書には、私たち人間は神さまから造られた者であり、神さまの愛の中を生きる者であるということが書かれています。それなのに、私たち人間は神さまを無視し、自分を神のようにして生きてしまう。そういう私たちに神さまが自ら呼びかけてくださった。それがイエス・キリストがこの世に、私たちのところにおいでくださった、ということです。まず、42節を読んでみますと、このようなことが書いてあります。
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
 随分と厳しい言葉が語られています。言われていることは、イエスさまを信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者に対する厳しい言葉です。ところで、イエスさまを信じるこれらの小さな者とは、誰のことでしょうか?今日の聖書の箇所のすぐ前のところには、イエスさまの弟子の一人であるヨハネがイエスさまに、あなたの名前を使って、悪霊を追い出している者を見ました。その人は私たちに従わないので、そのことをやめさせようとしました、と言っています(42節)。
 ヨハネは自分たちこそはイエスさまの正統な弟子であると自負していたのでしょう。私たちのグループとは違う人たちが、自分はイエスさまを信じている、イエスさまの弟子であると言っても、それを認めなかったのでしょう。私たちこそ正しい。これはイエスさまといつも一緒にいた弟子たちの間でも話し合われていたことでした。誰が一番偉いか(34節)。私の方がイエスさまの弟子にふさわしい、正しい。弟子たちの間でも、そういうことを競い合っていたようです。
 彼らはイエスさまが言われた「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」どころか、自分を大きく見せたいし、偉大な者になりたかったと思います。そういう彼らに向かって、イエスさまは一人の子供を抱き上げて言われました。36、37節です。
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
 これは前にもお話ししましたが、聖書の舞台であるユダヤにおいては、子供は無価値な存在とされていました。しかし、イエスさまは「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われました。このことから分かることは、イエスさまが何を大切しているのか、そして、イエスさまの弟子たちが何を大切しているのか、見ているところ、向かっているところがイエスさまとイエスさまの弟子たちとでは異なっていた、ということです。
 イエスさまを信じる小さな者を受け入れなさい、躓かせてはならないと言われました。躓かせてはならない、とはイエスさまから引き離してはならない、ということです。なぜなら、その小さな者をイエスさまは受け入れておられるのだから。小さな者をイエスさまが受け入れておられるように、あなたがたも受け入れなさい、というのです。これに続いて、イエスさまが言われたこと、それは小さな者を躓かせるだけでなく、あなたがた自身も躓かないように、ということです。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
 読んでみると、何とグロテスクなことが言われているのだろうか、と思うかもしれません。片方の手や足を切り捨てるとか、片方の目をえぐり出すとか、いったい、イエスさまは何を言われたのでしょうか?ここで言われていることは、文字通りの意味ではありません。比喩的な意味で言われたことです。手や足、目というのは、体の大切な各部分のことです。私たちが生きるためにいつも使っている体の各部分です。手が罪を犯す、目が罪を犯す。手が罪を犯す、というと、行為で、行いで罪を犯すと言ったらよいでしょうか。目が罪を犯す、というと、心で罪を犯すと言ったらよいでしょうか。私たちは自分では注意していると思っていても、正しく生きていると思っていても、いとも簡単に罪を犯してしまうような者であるということです。ではどうやって、自分を罪から守るのでしょうか。ここには、片手、片足を切り捨てよ、とか、片目をえぐり出せ、とありますが、これは罪を自覚するということです。罪の克服、それは自分の罪を知ることから始まります。そして、どうするか。48節以下の言葉をお読みします。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
 火とか、塩ということが言われています。ここで火というのは、不純物を精錬するという意味です。また塩というのは、腐敗を防ぐとか、塩によって味を引き立たせるという意味があります。私たちは世にあっては、罪の誘惑があり、試練があります。それは私たちにとって辛いこと、苦しいことですが、私たちが世にあって、精錬されるため、腐敗から逃れるために通らなければならないことなのです。罪の誘惑から逃れるため、試練を乗り越えるため、私たちは苦しみを受けるようなことが度々ありますが、そのことを通して、私たちの信仰は本物になっていくのです。そのことを言い表しているのがペトロの手紙一1章6、7節の言葉です。
1:6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

(むすび)
 イエスさまは弟子たちに、イエスさまを信じる小さな者を躓かせてはならないこと、小さな者を受け入れることを示され、弟子たちは、自分たちは何を求めていたのだろうか?何を目指していたのだろうか?と悔い改めへと導かれたことと思います。悔い改めというのは、生き方の方向転換ということです。自分たちの方ばかりを見ていた、向いていた、その向きを神さまの方へ向き直すことを示されたことでしょう。
 そして、イエスさまはもう一つ大切なことを示されました。それはイエスさまを信じる小さな者、あのイエスさまが呼び寄せた子供というのは、弟子たち自身のことでもあった、ということです。誰が一番偉いか、大きくなろう、強い者になろう、と考えていた弟子たちでした。しかし、彼らも神さまの前には一人の子供に過ぎない、小さな者に過ぎない、ということです。
 ある牧師先生はこう言っておられます。私たちがイエスさまを信じて生きようとすると、私たちは自分の力や誇りを捨てることになるから、小さくされ、弱くされていく。すると、そういう私たちを攻撃したり、惑わしたりして、信仰を失わせようとする者が私たちを苦しめる。けれども、イエスさまは私たちを一生懸命、守ってくださる、助けてくださる。私たちがすることは、自分自身の内に塩を持つこと、平和を保つこと。それは神さまの恵みを自分自身の中に蓄えること、というのです。
 神さまの前に自分がどのような者であるか、そのことを知ることから信仰は始まります。いとも簡単に罪を犯してしまうような私たちは小さな者、弱い者です。そういう私たちを自分の力や誇りではなく、神さまの愛と恵みが生かすのです。最後に詩編46編11、12節をお読みして終わります。
46:11 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

祈り
恵み深い主なる神さま
主は、私を信じるこれらの小さな者の一人と言われました。私たちもその一人とされていることをおぼえ、私たちを主が守ってくださること、助けてくださることを信じて、日々を歩ませてください。
 神の国、それは神さまの愛と恵みが支配しているところです。主は、片手になっても命にあずかる方がよい、片足になっても命にあずかる方がよい、一つの目になっても神の国に入る方がよい、と言われました。それは自分の力や誇りによって生きることから、神さまの愛と恵みによって生きることです。どうか、私たちを神の国に入る者、神の国に生きる者として導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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