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【礼拝説教】2021年7月4日「どのように聞くのか」

聖書―マルコによる福音書12章1~12節
(はじめに)
 イエスさまは祭司長、律法学者、長老たちにたとえ話を語られました。もっと正確に言うと、たとえ話を通して、大切なことを語られた、ということです。その話を聞いた彼らのことが12節にこのように書かれています。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので」。「当てつけて」とあります。「当てつけ」という言葉は良い意味の言葉ではありません。私の手元にある辞書で「当て付ける」という言葉を引いてみますと、「①他のことにかこつけて皮肉を言う。②わざと見せつける。」(角川必携国語辞典)とありました。
 イエスさまがお話しされたたとえ話が彼らにとって皮肉だったのでしょうか?別の訳の聖書を見てみますと、「彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので」(新改訳2017)とあります。イエスさまは彼らに対して、自分たちのこととしてこのたとえ話を聞くように語られたのです。しかし、聞いた方は素直に受け止められず、当てつけとして聞いたということになるでしょうか。
 私は学生時代にイエスさまを信じて、毎週の礼拝に出席し、説教を聞くようになりました。父が牧師でしたが、信仰を持って間もない頃は説教を聞いても、あまり何も感じない、感動もしない、ということが続きました。しかし、そのうちに説教を聞くと、何か腹が立ってくるようになりました。なぜ、腹が立つかというと、説教が自分に対する当てつけではないか、と思うようになってきたのです。牧師と言いますか、父が私に当てつけて、ああ言っているのではないか、こう言っているのではないか。そう思うようになると、毎週、腹が立つわけです。そのことで協力牧師の先生にお話をしました。すると、その先生が言われたのは、それはあなたの信仰が成長してきた証拠だ、というのです。あなたは説教を他人事のように聞くのではなくて、自分に語られたこととして、自分に対する神さまの語りかけとして聞くようになってきたのだ。当てつけと思うのは、あなた自身の心が、あなた自身の生き方が問われているからなのだ、というのです。
 聖書の言葉は、私たち一人一人に語りかけるものです。神さまからの語りかけです。それはある時は、私たちを励まし、慰めます。しかし、ある時は、私たちに厳しく問いかけることもあります。今日の聖書の言葉を私たちはどのように聞くでしょうか。

(聖書から)
 今日お読みしました聖書では、イエスさまがぶどう園のたとえ話をされています。最初の箇所を読んでみます。
12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
 「ある人」というのは、このぶどう園の所有者、主人のことです。この人がぶどう園のことでいろいろな用意をしました。ぶどうの実が実ったら、収穫し、ぶどう酒を造ることができるようにして、農夫たちにぶどう園と道具など、丸ごと貸して旅に出た、ということです。そして、収穫の時になり、ぶどう園の収穫を受け取るために、主人は自分の僕を農夫たちのところへ送りました。ところが、この後、大変なことが起こります。3節以下をお読みします。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
 どうでしょうか。とんでもないことが起こりました。これはあってはならないことです。主人の送った僕たちが暴力を振るわれたり、殺されたり・・・。農夫たちの役目は収穫したものを主人の僕に渡すことなのに、収穫したものを渡すこともなく、僕たちを散々な目に遭わせたのです。ところで、この話はたとえ話です。この話を理解するために、ぶどう園の主人とは誰のことなのか、農夫たち、主人の僕たちは誰のことなのかを知る必要があります。ぶどう園の主人、それは神さまのことです。主人の僕たちというのは、神さまが遣わした預言者たちのことです。そして、農夫たちとは、イエスさまがこのたとえ話を語った人たちのことです。
 ぶどう園の主人は自分が遣わした僕たちが殴られたり、殺されたりして、どんな思いだったのだろうか、とたとえ話ではありますが、いろいろと考えさせられます。その主人ですが、今度は自分の愛する息子をぶどう園に送り出します。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
 主人の愛する息子はどうなったか?この息子も農夫たちによって殺されてしまった、というのです。何ともむごい、悲惨な話ですが、この主人の愛する息子とは誰のことかというと、皆さんはもうお分かりになったと思います。神さまの独り子であるイエスさまのことです。イエスさまが死なれること、私たちの罪のために十字架にかかって死なれることがここに語られているのです。
 ぶどう園の主人は、自分の僕をぶどう園に送り出しました。ぶどう園とは何かというと、神さまがお造りになったこの世界と考えることができると思います。ですから、ここで言われていることは、神さまが預言者たちをこの世界に送り出されたということです。けれども、農夫たちは受け入れませんでした。農夫たちというのは、祭司長、律法学者、長老たちという当時の宗教的指導者たちになるでしょうか。彼らこそは神さまの求めておられることを知り、それに従うべき人たちでしたが、神さまの思いを知ろうとせず、自分たちの利得のみを求めていきました。そして、神さまのみ子であるイエスさまのことを受け入れず、ついには主を十字架にかけてしまったのです。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
 9節にありますように、ぶどう園の主人、すなわち、神さまはぶどう園であるこの世界を委ねられたのに、それに応えなかった人たちを厳しく問われます。そして、主は一つの聖書の言葉を引用されました(詩編118編22、23節)。
 「家を建てる者」。ここでは祭司長、律法学者、長老たちのことを指していますが、私たちも家を建てる者です。それぞれの家庭を建てるという仕事を神さまから委ねられています。神さまを信じる者には、教会、神さまの家を建てるということを委ねられていると言えるでしょう。ところが、ここには「家を建てる者の捨てた石」とあります。神さまの家を建てるために礎、土台の石となる大事な石を祭司長、律法学者、長老たちは捨ててしまったというのです。しかし、「これが隅の親石となった」。神さまが教会をお建てになる時、彼らが捨てた石を神さまが教会の礎、土台の石として、据えてくださったというのです。そして、この石とは、イエスさまのことです。私たちはどうでしょうか?私たちの家庭であるとか、教会について、その礎、土台の石をイエスさまにしているでしょうか?それとも、イエスさまではなく、別なものを据えているようなことはないでしょうか?

(むすび)
 今日の聖書の最後には、このようなことが書かれていました。
12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。
 祭司長、律法学者、長老たちはイエスさまから、厳しいですが、大切な問いかけを受けたのに、それを素直に受け取ることができませんでした。「これは私たちに対する当てつけだ!」と怒り、イエスさまを捕えようとします。しかし、「群衆を恐れた」と書いてあります。群衆、それは名も無き人々です。その人たちは、イエスさまが言われる言葉に耳を傾けて聞いていた、その心に受け止めていたのです。それによって、何が本当のことなのか、真実なのか、またイエスさまという方がどのような方であるのか、見えてきていたのではないでしょうか。そこで祭司長、律法学者、長老たちはイエスさまを捕えようとするならば、この人々を敵に回すようなことになると思い、イエスさまを捕えることができず、立ち去っていったのです。
 私たちはイエスさまの言葉をどのように聞くでしょうか?イエスさまから私たちは慰めを受け、励ましを受けます。しかし、それだけでありません。私たちが愛に生きるため、真実に生きるため、主は時として、右にも左にも曲がりそうな私たちに厳しく問いかけられることもあります。その時、私たちはどのように聞くでしょうか?私は神さまの言葉を聞くということは、本当のことを知る喜び、本当のことが分かる喜びがあると思うのです。使徒言行録の中でペトロがこのように語る箇所があります。「ペトロは我に返って言った。 『今、初めて本当のことが分かった』」(使徒12章11節)。我に返るというのは、本当の自分に立ち返るということです。そして、本当のことが分かった、と言っています。イエスさまの言葉を聞いて、立ち去った人たちのことを今日の聖書の箇所から知りますが、私たちは、イエスさまから立ち去るのではなく、我に返り、本当のことが分かった!そのように言うことができたら幸いだと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主はたとえ話を用いて、祭司長、律法学者、長老たちに語りかけました。それは彼らが主に立ち返るためでしたが、その語りかけを聞いても、心がますます頑なになり、主を捕えようとしたことが書かれていました。
 主は私たちにも時に厳しく語りかけられることがあります。しかし、それは私たちが主にあって良き歩みができるように、という愛の心からの語りかけです。どうか、主の愛の心を素直に受け止めて、主の言葉を聴き、それによって、自己中心の生き方から神さまを愛し、他者を愛する生き方へと導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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