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【礼拝説教】2021年7月11日「神のものは神に」

2021年7月11日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「神のものは神に」マルコによる福音書12章13~17節

聖書―マルコによる福音書12章13~17節
(はじめに)
 先週の祈祷会ではヤコブの手紙2章1~13節を学びました。この箇所には、人を分け隔てしてはならない、ということが書いてありました。今日お読みしました聖書の箇所にも「分け隔て」ということが書いてあります。イエス様に質問をしようとした人たちがこう言っています。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」(14節)。ここに「人々を分け隔てせず」とあります。イエス様という方は、分け隔てしない方と言っているのです。ところで、この「分け隔て」という言葉ですが、人の顔を見ない、あるいは人の顔色を窺わない、という意味です。イエス様は神さまの前で何が真実なのか、本当のことなのか、そのことを求めていかれた方でした。ですから、この質問者たちの言っていることは、間違いではありません。真実な方、誰をもはばからない方、そして、人々を分け隔てしないで、真理に基づいて神さまの道を教えておられる方。その方の言葉を私たちは聴いていきたいと思います。

(聖書から)
 イエス様に質問をした人たちについて、13節にこのように書かれています。「人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした」。イエス様への質問、それはある目的があったことが分かります。イエス様の言葉じりをとらえて陥れるためだった、ということです。しかし、イエス様がどのような方であったかは、先ほどお読みした言葉にありましたように、よく分かっていたはずです。イエス様が真実な方である。そのことは知っているけれど、イエス様に従っていくつもりはない。この質問者たちというのは、そういう人たちであったわけです。
 その人たちの質問がこのようなものでした。「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」(14節)。皇帝に対する税金について質問をしています。私たちは税金を納めること、納税の義務というのは、憲法が教えていることであって、税金を納めることで、私たちは国を支えているわけですが、ここでユダヤのファリサイ派やヘロデ派の人たちはなぜ、このような質問をしたのでしょうか?
 この話の舞台はユダヤです。当時、ユダヤの人たちはローマ帝国に税金を納めていました。なぜなら、ユダヤはローマ帝国に支配され、属国となっていたからです。ユダヤを支配するローマ帝国、その帝国の支配者である皇帝に税金を納めること、彼らはそのことについて、イエスさまに対して、ユダヤ人の信じる神さまの律法の教えに適っていることですか、それとも適っていないことですか。税金は納めるべきですか、納めてはならないですか、と質問しました。
 この質問ですが、これに対する答えは二つであったと思います。一つはローマへの納税、それは律法に適うことであって、納めるべきという答えです。もう一つはローマへの納税、それは律法に適わないことであって、納めてはならないという答えです。そして、どちらの答えであっても、イエス様が不利になることになりました。
 一つの答え、納税は律法に適うことで、納めるべき。このようにイエスさまが答えたなら、ローマに批判的なユダヤ人たちは、イエスさまは私たちのメシア、救い主として、ユダヤをローマから解放するために来られた、と思っていたが、この方もローマの言いなりなのか。そう考えて、イエスさまに失望して、去って行くことになります。一方、もう一つの答えですが、納税は律法に適うことではない。納めてはならない、とイエスさまが答えたなら、イエスさまという方はローマの反逆者だとローマの総督に訴えて捕えようとしたわけです。
 イエスさまはどのように答えられたでしょうか。15節をお読みします。「イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」」。「彼らの下心を見抜いて」とありますが、イエスさまは、彼らが自分を罠にはめようとしていたことは分かっていました。そこでイエスさまはこう言われました。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」。
 イエスさまはデナリオン銀貨を持ってきてそれを見せなさい、と言われました。デナリオン銀貨、それはローマ帝国が発行している銀貨です。税金を納めるときにもそれが使用されていました。なぜ、それを持って来させたかというと、次の16節にこのように書いてあります。「彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた」。デナリオン銀貨には、肖像と銘がありました。私たちも手にする日本の貨幣、硬貨には肖像はありませんが、紙幣の方をご覧になりますと肖像があります。今は福沢諭吉、樋口一葉、そして、野口英世ですが、あと何年かしますと、渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎に替わります。なぜ、このような人たちの肖像を選んだのかというと、財務省のホームページを見ると、知名度の高い文化人の中から、ふさわしいと考えて選んだとありました。ではデナリオン銀貨の肖像と銘についてはどういう意味があるかというと、それは当時の支配者という意味です。デナリオン銀貨には当時の皇帝ティベリウスの肖像が彫られていました。そして、「崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝ティベリウス」(新共同訳注解)という銘があったそうです。
 イエスさまの質問、「これは、だれの肖像と銘か」。これに対して、彼らはもちろん、「皇帝のものである」と答えました。すると、イエスさまは彼らにこのように言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(17節)。このイエスさまの答えですが、これを私たちはどのように理解したらよいでしょうか?
 このイエスさまの言葉を例えば、こんなふうに理解することができます。「皇帝のものは皇帝に」。それは、この世の中のことであるとか、この社会のこと。この国は今、ローマ帝国が支配している、皇帝のものである。だから、この国の言うとおりに従い、皇帝に従っていくことが正しいことなのだ。しかし、それとは別に、「神のものは神に返しなさい」とあるから、宗教の世界、信仰、精神とか、心の世界においては、神さまに従っていけばよい。
 他にも、家庭のことと教会のことでも考えることができます。教会では、神さまを礼拝し、神さまの言葉に従う。けれども、家庭では、それとは別の考え、価値観で生きる。そのようにして、別々の原理、次元で考え、生きるあり方、これを二元論と言います。どうでしょうか?イエスさまはそのようなことをここで教えられたのでしょうか?
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。このことを理解するために、別の聖書の箇所も併せて読んでみましょう(ローマ13章1~7節)。
13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。13:2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。13:3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。13:4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。13:5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。13:6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。13:7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。                            (ローマ13章1~7節)
 この中で、一つ注意したいことがあります。それは、権威者は神さまに仕える者(4、6節)とあることです。また権威者については、善を行う者(3、4節)という前提があることもおぼえていなければなりません。神さまに仕える善い権威者、その権威に対しては、従うように、と言われているのです。さらに言いますと、権威者は神さまに仕える者。それは世の中の権威者も神さまの支配にある者という意味です。そのことから考えますと、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というのは、「皇帝のものは皇帝に」、それは、この世にあって、社会にあって、果たすべき責任とか義務ということが考えられるでしょう。しかし、「神のものは神に返しなさい」ということからは、その皇帝も、この世も、この社会も、すべては神さまのもの、神さまの支配にある。だから、私たちはすべてが神さまのものであることを踏まえながら、すべてのことを行っていく、ということです。

(むすび)
 イエスさまはデナリオン銀貨に何の肖像、銘があるかをお尋ねになりました。そして、今、イエスさまは、私たちにも、あなたには何の像があるか、お尋ねになっているのではないでしょうか?二つの聖書箇所を読んでみます(創世記1章27節、エフェソ4章22~24節)。
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
(創世記1章27節)
4:22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、4:23 心の底から新たにされて、4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。               (エフェソ4章22~24節)
 お読みしました二つの聖書の箇所から注目したいのは、私たち人間は神さまにかたどって造られたものということです。デナリオン銀貨は皇帝ティベリウスの肖像が彫ってありました。そのことでこの銀貨は皇帝のものということを示しましたが、私たちは神さまの像(かたち)にかたどって造られたものです。私たちは誰のものなのかというと、神さまのものなのです。するとイエスさまが言われた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というのは、あなたは神さまのものなのだ。神さまにかたどって造られたあなたは、神さまのものとして生きよ、神さまの恵みに応えて生きよ。そのようなメッセージなのではないでしょうか。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主は分け隔てをしない方です。分け隔てとは、人の顔を見るということです。私たちが人の顔色を窺って生きる時、真実に生きることができなくなります。私たちが神さまのみ心を見る者、求める者となりますように導いてください。
 私たちは神さまのかたちに似せて造られたもの、神さまにかたどって造られたものです。それなのに、私たちの日々の歩みは、造り主である神さまを忘れ、神さまの言葉から離れてしまう者です。「神のものは神に返しなさい」と主は語られました。自分が神さまのものであることを思い起こし、神さまの愛と恵みを思い起こし、感謝して生きる者でありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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