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【礼拝説教】2022年1月2日「まさか私のことでは」

聖書―マルコによる福音書14章10~21節
(はじめに)
 2022年、新しい年が始まりました。まだまだ新型コロナの感染が収まらず、気が抜けない日が続きますが、この年も主の守りを信じて歩んでいきたいと思います。
 お読みしました聖書は、マルコによる福音書14章10節からです。先週まで、クリスマスの聖書の箇所、イエスさまが私たちのところへおいでになった出来事が書かれている箇所からお話ししましたが、今日はこのところ、礼拝で読んでいますマルコによる福音書の聖書の箇所から聴いていきたいと思います。読み進めてきたマルコによる福音書も後半となりましたが、この箇所では、いよいよイエスさまが十字架におかかりになる日が近づいたことが表されています。

(聖書から)
 マルコによる福音書14章10、11節には、イスカリオテのユダがイエスさまをユダヤの指導者たちに引き渡そうとする機会をうかがっていたことが書かれています。それに続いて、12節以下、新共同訳聖書では、「過越の食事をする」という小見出しが付けられています。
 過越の食事。それはイスラエルの民がエジプトから救い出されたことを祝う食事のことです。その食事の席をイエスさまがご自分の弟子たちのために用意してくださいました。この過越の食事の時、イエスさまは「主の晩餐」と言われる大切な救いの出来事をお示しになりました。そのことは、この後、22節以下で触れますが、その直前の様子がここに書かれていました。
 17節からご覧いただきますと、イエスさまと弟子たちの食事の場面が書かれています。
14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
 イエスさまは食事の席で、このように言われました。イエスさまを裏切ろうとしている者がいると。それを聞いて、弟子たちはどのように思ったでしょうか?そのことが19節に書かれています。
14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
 弟子たちは代わる代わるこのように言い始めた、というのです。「まさかわたしのことでは」。イエスさまはご自分を裏切ろうとしている者がいる、と言われるが、それは私のことではないでしょうね、と言っているのです。ここで不思議なのは、自分は決して、イエスさまを裏切らない。そのように断言した者、確信を持って言い切った者はどうもいなかったように思います。なぜでしょうか?
 しかし、私はこの弟子たちのイエスさまの言葉に対する様子を読んで、この弟子たちというのは、自分自身をきちんと見つめ、かえりみることのできる人たちだった、と思うのです。私は決してイエスさまを裏切らない!そのように言いたいけれど、言えなかった。なぜなら、私という人間はそれほど強い者ではない。もしかして、この私がイエスさまを裏切るようなことがあるかもしれない・・・。
 自信のない弟子たちの姿があります。けれども、自信というのは何かというと、自分を信じるということです。しかし、私たちは、自分という人間を信じることができるほど、頼りになる者ではないことを知っていると思います。神さまを信じるということは、自分という人間が信頼できるような者ではない。信頼すべきは神さまただお一人なのだ。そのことを知って、神さまを信頼して生きるということです。自信、自分を信じること、あるいは人間を信じることから、神さまを信じることへの転換ということです。
 「まさかわたしのことでは」。それは、イエスさま、あなたがすべてをご存じです。私は自分があなたを裏切るか、裏切らないか、自分でも分からないのです。ただあなたがご存じです。主に尋ねているような言葉のようにも思えます。印象的なのは、この言葉を発する時、弟子たちについて、「弟子たちは心を痛めて」と書いてあることです。
 20、21節をお読みします。
14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
 「生まれなかった方が、その者のためによかった」。強烈な言葉のように聞こえます。イエスさまはどういうつもりでこのことを言われたのでしょうか?ご自分を裏切る者に対する恨みや憎しみから、このようなことを言われたのでしょうか?随分、昔の話になりますが、私が牧師になる準備の期間、神学生時代に中高生の教会学校のクラスを担当していた時、この聖書の箇所を学んだことがありました。一人の生徒が「生まれなかった方が・・・」。このことについて、私に質問をしました。「生まれなかった方がよい。そういう人はいるのでしょうか?」と尋ねました。
 私は、イエスさまは、文字通り、あなたは生まれなかった方がよかった。そういう意味で言われたのではないと思う、と答えました。そして、おそらく、イエスさまを裏切ったその弟子は、その後、そのことでとても苦しむことになる。イエスさまを裏切ってしまった、罪を犯してしまった・・・。そのことを思い、その苦しみを知るイエスさまの心から出た悲しみ、あるいは憐れみの言葉だったのではないだろうか?と答えました。
 今月は私の父が召天して、早いもので十年目を迎えます。父は牧師をしていましたが、父からは、六十年代から七十年代にかけての教会闘争があった大変な時代の話を聞いたことがあります。教会闘争というのは、当時の学生運動の影響を受けたキリスト者の学生たちによるものでした。真剣な教会に対する問いかけでしたが、残念なことに、対話に留まらず、暴力的な闘争というところまでいってしまったわけです。父が当時、牧していた教会も教会解体を叫ぶ学生たちで荒れたそうです。その首謀者となった学生はその後、教会を離れ、人生を見失い、自ら命を断ったそうです。父がその学生の末路を悲しみながら、話していたことを思い出します。
 イエスさまを裏切った弟子。それはおそらくある一人の弟子のことであると私たちは考えるかもしれません。今日の聖書の箇所にもその弟子の名前が出ていました。そして、ご存じのように悲劇的な最期を遂げてしまいます。しかし、イエスさまが十字架におかかりになる時、イエスさまのもとから逃げ出してしまった弟子たちがいました。その弟子たちもイエスさまを裏切った弟子たちと言えるのではないでしょうか?ですから、イエスさまが言われた「あなたがたのうちの一人で・・・」とは、ある特定の一人の弟子に向けてだけ語ったものではないかもしれません。一人一人に、それぞれに問いかけたことだったのかもしれません。

(むすび)
 イエスさまが、ご自分を裏切る者について語られたこと、それは、問いかけただけのことではありませんでした。そのことは次回お読みします22節以下の言葉から分かります。イエスさまは主の晩餐について語られました。主の晩餐、それは何を意味するのでしょうか?イエスさまの十字架の救いを意味します。イエスさまを裏切ってしまう私たち。イエスさまを知らないと言ってしまう私たち。そういう私たちのために、あの弟子たちのために、イエスさまがなさったこと、それが十字架におかかりになるということでした。私のための十字架。ご自分の命をかけて私たちを愛し、赦し、罪から救いへと導いてくださった。そのことを心にしっかりと刻み、主の愛と赦しを忘れないでいましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主の問いかけに弟子たちは代わる代わる「まさか私のことでは」と自分が主を裏切るのではないだろうか?と恐れおののきました。私たちもこの弟子たちと同じく、神さまの前に立つ時、誰一人として、主を裏切ることはないとは言い切れない者であり、日々の歩みにおいても、罪を犯し続けているような者です。
 そういう私たちのために、主がおいでになり、私たちを罪から救い出し、新しく生きる者へと導いてくださったことを感謝します。
 しかし、そのために主は十字架におかかりになり、ご自分の命をささげられました。この愛のわざを当たり前のことのように考えたり、自分とは無関係のことと思うようなことがありませんように。
 主の晩餐とは主の十字架の救いのみわざをおぼえることです。私たちを主の愛と赦しを思い、感謝と喜びに生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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