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【礼拝説教】2022年10月9日「完全な者とは?」

2022年10月 9日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「完全な者とは?」

聖書―マタイによる福音書5章38~48節
(はじめに)
 イエスさまはこのように言われました。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
 今日お読みしました聖書の最後の言葉です。「あなたがたも完全な者となりなさい」。私たちは天の父である神さまが完全な方であることを知っています、信じています。けれども、自分自身はどうか、というと、自分が不完全な者であることも知っているはずです。私たちが神さまのみ前に出る時、神さまの言葉を読み、祈る時、自分はどのように歩んできたのか、振り返りますと、自分がいかに罪深い者であるか、不完全な者であるか気づかされ、悔い改めに導かれる毎日です。
完全な方、罪のない方である私たちの救い主イエスさまはそういう私たちに「あなたがたも完全な者となりなさい」と言われるのです。私たちはこのイエスさまの言葉をどのように聞くでしょうか?どのように受け止めるでしょうか?

(聖書から)
 今日お読みしました聖書は、マタイによる福音書5章38~48節でした。新共同訳聖書では38~42節は「復讐してはならない」という小見出しが付けられていました。43~48節は「敵を愛しなさい」という小見出しが付けられていました。まず、前半の聖書の言葉から聞いていきたいと思います。
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
イエスさまは「目には目を、歯には歯を」という言葉を引用されました。引照付きの聖書をお持ちの方はこの節の引照の箇所をご覧ください。新共同訳聖書の付録のところにも引用箇所が載っていますので、そちらでもご覧ください。出エジプト記21章24節、レビ記24章20節、申命記19章21節、それぞれの箇所に、「目には目を、歯には歯を」、この言葉が出ています。
この「目には目を、歯には歯を」というのは、復讐しなさい、という教えではありません。同害報復法というもので、復讐の奨励というよりも、むしろ、際限なく復讐することを禁じる教えです。ところが、この教えをユダヤの人々は復讐の教え、復讐してもいいのだ、と誤解するようになってしまいました。聖書の言葉も正しく理解していかなければ、神さまのお考えとは違う方向へ進んでしまいます。イエスさまはご自分のことを律法の完成者(17節)と言われました。私たちは聖書を自分勝手に読み、理解するのではなく、イエスさまから教えていただくことが大事です。神さまに祈り、聖霊の助けをいただいて、神さまの語りかけとして聞いていくのです。
さて、39節以下で、イエスさまはこのように語られます。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
 イエスさまが語られたことは、復讐ということとはまったくかけ離れたことです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。この言葉を読んで、「クリスチャンは何と馬鹿な教えに従っているのだろう!叩かれたのなら、叩き返すのが常識だろう」。そのように言われる方があります。確かに人間的に考えると、常識的ではない、ありえないことかもしれません。
 40節以下の言葉も、常識的ではない、ありえない教えかもしれません。むしろ、抵抗するべきではないか、相手の思うままにさせておくなら、この世の中がおかしくなってしまうではないか・・・。このイエスさまの言葉を読んで、そのように思われた方、あるでしょう。
 このイエスさまの言葉の中に鍵となる言葉があります。それは「悪人に手向かってはならない」という言葉です。この「手向かう」という言葉ですが、これは、抵抗する、あるいは、戦う、という意味です。そして、「悪人」というのは、ここでは神さまに従わない人、神さまのみ心を求めない人のことを指しています。イエスさまはここで四つの具体例をお話しされましたが、それは、あなたがたは神さまに従わない生き方、あり方、神さまのみ心を求めない生き方、あり方、これに対して、抵抗しなさい、戦いなさい、と言われたのです。
 ところで、その抵抗、戦いの方法ですが、イエスさまがお話しされた具体例には、「頬を打つ」とか、「下着を取ろうとする」、「一ミリオン行くように強いる」、「借りようとする」とありましたが、私たちがそれに抵抗する場合、戦う場合、それと同じ方法は取らないのです。頬を打つ、叩く、というのは、暴力です。暴力に暴力で返さないのです。強いる、とありましたが、強制しようとすることには強制で返さない。奪おうとすることには奪い返すことはしないのです。「悪人に手向かってはならない」。それは悪人に対して何もしない、ということではありません。別の方法で抵抗しなさい、戦いなさい、ということです。
 使徒パウロはこのように語っています(ローマ12章17~21節)。
12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
 私たちは悪に負けてはいけないのです。悪に悪で返さないのです。むしろ、善をもって、愛をもって抵抗していく、戦っていくのです。なぜなら、神さまの愛と義が勝利することを信じているからです。
 これに続いて、イエスさまはこのようなことを語られます。
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
 これはレビ記19章18節の引用です。その箇所を見てみましょう。
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
 読んでみて分かることがあります。それは「敵を憎め」という言葉はどこにもありません。つまり、律法にはないこと、神さまの教えではないことを当時のユダヤの人たちは神さまの教えであるかのようにして守っていたのです。また彼らにとって、隣人とは、同じユダヤの人たちのことでした。そうでない人は敵であり、憎む対象であったのです。
 それに対して、イエスさまはこのように語られました。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 イエスさまは敵を愛しなさい、と言われ、自分を迫害する者のために祈りなさい、と言われました。先ほどは、悪に手向かってはならない、ということから、悪に悪で報いず、善で報いるように。それが悪に抵抗すること、戦うことであるということをお話ししました。そして、敵を愛すること、自分を迫害する者のために祈ることが語られています。これらは素晴らしい教えだと思います。しかし、私たちが実行するには大変難しい、不可能と思えるような教えです。
 45節からお読みします。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
 私たちもかつては神さまを知らず、無視していた者でした。今お読みした言葉で言うなら、悪人であり、正しくない者でした。いえ、今でも神さまの前に立つ時、自分は善人とは言えない、正しい者とは言えない者です。しかし、そういう私たち、神さまを知らなかった時も、神さまを知り、神さまを信じて歩む今も、神さまは変わることなく、私たちを愛しておられます。そして、主は、私たちが不完全な、罪深い者であるのに、悪と戦え、敵を愛せ、自分を迫害する者のために祈れ、と言われます。それはなぜかというと、「あなたがたの天の父の子となるため」、神さまの子どもとして生きるためというのです。

(むすび)
 そして、今日の結びの言葉として、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあります。私たちが聖書の言葉の一つ一つを実践することに努めること、これは大事なことです。しかし、み言葉に従おうと努めれば努めるほど、それがいかに難しいことか分かります。自分の中の罪が妨げていることが分かります。愛さなければ、と思っても愛せない。許さなければ、と思っても許せない・・・。そういう自分の罪に対する弱さを知ります。
だから、私たちの毎日は悔い改めの日々なのです。悔い改めとは何でしょうか?悔い改めとは、ああ、私はダメだ!と嘆くことではありません。悔い改めとは、自分の罪を認め、自分は一人ではやっていけない。神さまなしにはやっていけない。そのことを知り、神さまに立ち帰っていくことです。私は神さまに造られた者、愛されている者。そのことを信じて、神さまの子どもとして、神さまと一緒に人生を生きることです。神さまは完全な方です。その完全な方と一緒に歩んでいく時、私たちは完全な者へと造りかえられていくのです。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられてい」(二コリント3章18節)くのです。お祈りいたします。

祈り
恵み深い主なる神さま
あなたは私たちのところに大切なみ子であるイエスさまを送ってくださってありがとうございます。
イエスさまは人々が聖書の言葉を正しく理解できるように、ご自身が律法の完成者として、語ってくださいました。
聖書の言葉は私たち自身の知恵や力では理解できなかったり、実行できないことばかりですが、そのことを通して、聖霊の助けが必要であること、神さまと共に歩まなければならないことを教えられます。
 私たちが日々悔い改め、神さまに立ち帰り、神さまによって新しく造りかえられることを信じて歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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