ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. メッセージ
  4. 【週報巻頭言】2022年12月25日 交わりに生きる者として(ヨハネ1章1~5節)  

【週報巻頭言】2022年12月25日 交わりに生きる者として(ヨハネ1章1~5節)  

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1章1~5節)

ヨハネによる福音書の冒頭の1章には、繰り返し、「言」について語られています。この「言」というのは、神さまの言葉ということであり、また、私たちの救い主イエス・キリストを指しています。ここにはイエス・キリストは最初からおられ、まことの神さまと共におられ、イエス・キリストは神さまである、ということが言われているのです。

1節には「言は神と共にあった」とあり、2節にも「この言は、初めに神と共にあった」とあります。イエス・キリストは神さまと共におられた。この「共に」という言葉は「向き合う」という意味があります。イエスさまと神さまは向き合われた、というのです。向き合うというのは、共に生きること、交わりに生きる関係ということです。創世記2章18節には、神さまが人をお造りになったことが書かれています。

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2章18節)

神さまは人が独りでいるのは良くない、と言われました。これは、人は独りでは生きていくことができない者、ということです。人は共に生きる存在なのです。ここには「彼に合う助ける者」とありましたが、人は人と助け合って生きる存在なのです。神さまについて、キリスト教では、三位一体の神と言います。父と子と聖霊の神さま、それは私たちと共に歩まれ、向き合われる神さまということです。そして、その神さまによって造られた私たちも共に生きる、向き合って生きる。つまり、交わりによって生きる者なのです。

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧

アーカイブ

月を選択