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【週報巻頭言】2023年2月12日 ふさわしい者とは?(一コリント11章23~34節)

「ふさわしくないままで」(一コリント11章27節)ということで考えたいことがあります。それは、私たちは、神さまの前に立つ時、誰一人、自分のことをふさわしい者と思う人はいないと思うのです。教会の礼拝に出席しておられたある方は、その方自身、クリスチャンでしたが、主の晩餐式が行われる度に、自分自身の過去の罪が思い起こされ、私はふさわしい者ではない、と言って、パンと杯を受け取ることをしませんでした。私はその方がどれだけ深く自分の罪を悔いておられるのか、そのことを考えると、とても敬服しますが、私たちも自分の罪を思い起こし、追求していくならば、誰もふさわしい者はいないのです。しかし、そういうふさわしいとは思えないような私たちのために、主は十字架にかかり、ご自分の命をささげてくださったのです。これはイエスさまがふさわしくないような私たちをふさわしい者としてくださった、神さまの前に立つことを赦してくださったということでもあるのです。ですから、自分ではふさわしい者とは思えない、そういう私たちをふさわしい者としてくださった神さまの愛と恵みを受け取る。それが主の晩餐にあずかることであり、パンと杯を受け取ることなのです。

一コリント11章28節に「自分をよく確かめたうえで」とあり、同29、31節に「わきまえる」という言葉が出てきますが、これは自分で自分を確かめるとか、自分で自分をわきまえる、ということではありません。私たちはそれぞれ自分の物差しを持っています。その物差しで、人のことや自分のことを測ったりするわけですが、そういうことではないのです。神さまの物差し、神さまの基準で、自分をよく確かめる、自分をわきまえるのです。自分の物差しで自分を測るなら、私たちは誰も神さまの前に立つことはできない、神さまの前にふさわしい者はいないのではないでしょうか。しかし、神さまの物差しではそうではありません。神さまの恵みによって、私たちは神さまの前に立つことができるようにしていただいた。神さまの恵みによって、神さまの前にふさわしい者としていただいたのです。

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