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【礼拝説教】2023年7月23日「主のわざに常に励もう」

2023年7月23日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「主のわざに常に励もう」コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50~58節

聖書―コリントの信徒への手紙一15章50~58節
(はじめに)
 使徒パウロは、復活について、どのようにして、人は復活するのか?どのような体で復活するのか?という質問に対して、答えています。けれども、考えてみると、パウロ自身、まだ復活を経験したことはないはずです。それなのに、どうして、パウロは、復活について答えることができるのでしょうか?パウロは、聖書の言葉から答えていったのです。
 聖書の言葉から答える、ということで言いますと、例えば、皆さんが、自分の友人や家族から、教会の礼拝に出席しているし、イエスさまを信じている人だったら分かるだろうと、神さまの愛って、どんな愛ですか?と聞かれたら、どう答えるでしょうか?おそらく、神さまの愛ということを聞くと、皆さんは、自分の愛というのは、神さまの愛に比べたら、どんなに小さなものか、そのことは聖書を読めば読むほど、分かってくると思います。一方で、神さまの愛が、自分には考えられないほどの大きな大きな愛であるということも分かってくると思います。
 そのように聖書の言葉というのは、自分の経験を超えた、自分の考えや思いを超えたことが書かれているのです。パウロは、人々が神さまの愛を知ることができるように、と祈りました。自分自身についても神さまの愛を知ることができるように、と祈っていたと思います。その聖書の言葉をお読みします(エフェソ3章14~21節)。
3:14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。3:15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
3:20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
 私たちも、パウロのように、神さまの愛を知ることができるように祈っていきたいと思います。聖書の言葉を通して、イエスさまに日々、出会っていきましょう。

(聖書から)
 さて、今日の聖書個所では、このようなことをパウロは言っています。
15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
 肉と血は、神の国を受け継ぐことはできない。朽ちるものは、朽ちないものを受け継ぐことはできない、と言っています。これは、どういうことかというと、私たちは、このままでは、神の国に入ることはできない、ということです。こういう話を聞くと、私たちは心配になります。神の国というのは、天国のことですが、私たちが生きている間、神さまから認められるような立派な生き方をしなければ、神の国、天国に入ることはできないのだろうか?と考えるかもしれません。けれども、この後に、こういうことが書かれているのです。
15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
 パウロは、あなたがたに神秘を告げる、と言いました。神秘というのは、神さまを信じることによって分かること、ということです。その神秘について、聞いていきたいと思いますが、私たちはみんながみんな、眠りにつくわけではない、と言っています。ここで、眠りにつく、というのは、死ぬ、ということです。みんながみんな、死ぬわけではない。これはどういうことかというと、この聖書の言葉が書かれた当時、自分がまだ死なないうちに、イエスさまが再びおいでになる、と信じて、待ち望んでいた人たちがいたのです。パウロ自身も、今か今かと、イエスさまがおいでになることを待ち望んでいたのです。それで、こう言ったのですが、その後には、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」とあります。それは、生きている人も、もう死んでしまった人も、みんな、今とは異なる状態に変えられる、と言っているのです。
 変えられる。どんなふうに変えられるのか、というと、もう一度、52節を読んでみますと、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」とあります。最後のラッパが鳴る。どういうことでしょうか?何か、合図があるのでしょうか。すると、一瞬のうちに、変えられる。それは、死者は復活して朽ちない者とされる、とありますように、私たちは復活して朽ちない者に変えられる、というのです。
 ここでおぼえたいことは、繰り返し、こう言われているのです。私たちは、変えられる。自分で変わるのではないのです。自分の力、努力によって変わるのではないのです。変えられる、とありますように、自分ではない誰かによって変えられる。その誰かとは、神さまのことです。私たちは、神さまによって変えられるのです。
 この変えられる、ということについて、次の聖書の言葉では、このように言い表されています。
15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
 「変えられる」ということが、ここでは、「着る」という言葉で言い表されています。朽ちるべきものが、朽ちないものを着る。死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになる。何か、衣服を着用するような言い方ですが、「着る」という言葉は、別の聖書個所にも出てきました(ローマ13章12~14節)。
13:12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
 「夜は更け、日は近づいた」というのは、イエスさまが再びおいでになる日を指していると思います。その日に備えて、私たちがすること、それは、光の武具を身に着けること、光の武具を着ること、と言われていますが、もう一つの言葉でも言い表されています。「主イエス・キリストを身にまといなさい」。イエスさまを着なさい、と言われています。
 もう一つ、「着る」ということが言われている聖書個所を見てみましょう。ガラテヤの信徒への手紙3章26、27節です。
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。3:27 洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
 ここにも、キリストを着る、ということが言われていますが、ここから分かることは、キリストを着るというのは、イエスさまを信じて、イエスさまと結ばれるということです。
 朽ちないものを着る。とか、死なないものを着る、というと、何かぼんやりとしたイメージしかわかないかもしれませんが、お読みした聖書個所を併せて読んでいくと、朽ちないものを着る、死なないものを着る、というのは、イエスさまを着る、ということ、イエスさまを信じて、イエスさまに結ばれる、ということが分かります。
 続いて54節からお読みします。
15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
 私たちが、朽ちないもの、死なないものを着る。つまり、キリストを着る、キリストに結ばれた者とされたのは、どのようにしてなのか、ということが、今、お読みした言葉に示されています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法」とありましたが、私たちに、死をもたらすものは罪です。また律法によって、私たちの罪は明らかにされ、私たちはその罪を責め立てられます。ところが、死は勝利に飲み込まれた、死をもたらすとげである罪はどこにあるのか、とあります。これはどういうことでしょうか。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神」とありました。イエス・キリストは十字架にかかって、死なれ、三日目に復活された。それは、イエスさまは罪と死に勝利されたということです。そして、そのことによって、私たちは罪と死から救われた。私たちも罪と死に勝利させていただいたのです。その結果、私たちは、永遠の命へと導かれたのです。

(むすび)
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
 パウロは、コリントの兄弟姉妹に語ります。「こういうわけですから」というのは、イエスさまの救いのことです。イエスさまの十字架の救いにあずかったあなたがたは、罪と死から救われ、永遠の命に生きる者とされた。だから、この救いを忘れないように。「動かされないようにしっかり立ち」とあります。私たちの心はすぐに揺れ動いてしまいます。試練があると、罪の誘惑があると、すぐに揺れ動いてしまいます。けれども、そういう私たちを救いへと導いてくださった方が支えてくださっているのです。支えてくださる主を見上げていく時、私たちは立ち続けることができるのです。
「主の業に常に励みなさい」。「励みなさい」という言葉は、「満ち溢れなさい」とも訳すことのできる言葉です。主のわざに常に励みなさい、というと、何か二十四時間、あなたは主のために頑張りなさい、と言われているように思えます。しかし、主のわざに常に満ち溢れなさい、ということからは、主のわざということが、主ご自身のわざ、主が私たちのためにしてくださった恵みのわざであるということを思い起こさせられるのです。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(二テモテ2章8節・口語訳)という聖書の言葉があります。主の恵みのわざを思う。主の恵みを見つめていく。すると、そこから、私たちの神さまの恵みに対する感謝の応答がなされていくのではないでしょうか。

祈り
恵み深い主なる神さま
  パウロは、復活を語る時、主がなさった救いのみわざから語りました。私たちはやがて神の国を受け継ぐ者として、朽ちないもの、死なないものに変えられる、という約束が与えられていることを感謝します。
 そして、その朽ちないもの、死なないものとは、イエスさまご自身です。私たちが今することは、キリストを着ることです。キリストを信じ、キリストに結ばれて歩むことです。そのようにして、私たちは今すでに復活に備え、神の国に備える者とされていることを感謝します。どうか、新たにキリストを信じ、キリストに結ばれて歩む人がありますように。そのために私たちを用いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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