【礼拝説教】2023年9月24日「キリストの選び」
聖書―エフェソの信徒への手紙1章1~14節
(はじめに)
お読みしました聖書の個所は、エフェソの信徒への手紙です。この文書名に手紙とありますように、使徒パウロがエフェソの教会の人たちに書き送った手紙と言われています。エフェソというのは、現在のトルコにある都市で、この手紙の書かれた二千年ほど前の時代には、経済的に大変栄えていました。またアルテミス神殿というギリシアの女神の名前が付けられた大きな神殿がありました。つまり、ギリシアの神々の信仰の盛んな都市でもあったわけですが、パウロは、このエフェソを訪れ、福音を宣べ伝えました。そのことについては、使徒言行録19、20章に書かれていますので、後でお読みいただければさいわいです。
(聖書から)
今日は、この手紙の最初の個所、1章1~14節をお読みしました。1、2節で、挨拶の言葉が語られ、続く3節では、このような言葉が語られています。
1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」とありました。この「ほめたたえられる」という言葉は、「祝福される」と訳すことができる言葉です。神さまはほめたたえられますように、ということ、あるいは、神さまが賛美されますように、ということは、私たちも言いますが、神さまが祝福されますように、ということは、あまり言わないのではないでしょうか。祝福と言いますと、むしろ、私たちが神さまから祝福を与えてください、という祈り、願いなどで使うことが多いと思います。
3節後半では、このようなことが語られます。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」。神さまのほうが、まず、私たちを祝福してくださっている。まず、神さまが、私たちを愛してくださっている。そのことを私たちが知る時、私たちも、それに応えて、神さまが祝福されるように、神さまを愛するように求めていく。そのようにして、私たちの信仰は生きたものとなっていくのです。愛され、愛する関係。それは、人と人との関係だけでなく、神さまと人との関係においても大事なことなのです。
ヨハネの手紙一4章10節に、このような言葉が語られています。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
この言葉が示すのは、愛は、私たちから始まったものではなく、神さまから始まったものであるということです。神さまが私たちを愛してくださった。しかも、その神さまの愛というのはどういうものかというと、私たちの罪を償ういけにえとして、神さまの大切なみ子であるイエスさまをお遣わしになった。これはつまり、イエス・キリストの十字架の愛、私たちを罪から救うために、神さまがご自分の大切なみ子であるイエスさまをお送りくださり、イエスさまはその命をささげてくださった。そのことによって、私たちは罪と死の滅びから、永遠の命に生きる者とされた。これが私たちに表された神さまの愛なのです。
さて、話は、今日の聖書の個所に戻ります。3節に「天のあらゆる霊的な祝福」とありました。神さまの方から、私たちに与えられた祝福、それが「霊的な祝福」と言われています。霊的な祝福とは、いったい何でしょうか?そのことが、この後の4節以下に語られています。
4節をお読みします。
1:4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
ここで「わたしたち」と言っているのは、パウロと送り先のエフェソの教会の信徒たちのことですが、今、この手紙を読んでいる私たちのことと受け取ってもかまいません。この4節で言われている霊的な祝福というのは、「神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」とありますように、私たちが、神さまから選ばれた者であるということです。普通、選ばれるというと、選ばれるだけの何かふさわしいものがあるから、選ばれるわけですが、神さまの選びというのは、私たち人間の側に、選ばれるだけの何かがあるから、ということではないのです。ただ、ここにこう語られていました。「キリストにおいてお選びになりました」。この「キリストにおいて」ということが、大事なことなのです。この「キリストにおいて」というのは、先ほどもお話ししましたが、キリストの十字架による救いのみわざによって、ということです。私たちが神さまから選ばれたのは、イエスさまが十字架におかかりになり、罪から救い出してくださったおかげなのです。霊的な祝福、その第一は、キリストにおいて選ばれた、ということです。
続いて、5節をお読みします。
1:5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
ここで言われている霊的な祝福、それは「イエス・キリストによって神の子にしようと」と語られていますように、神さまは、私たちを神の子とされた、ということです。ここにも「イエス・キリストによって神の子にしようと」とありますように、「イエス・キリストによって」ということが語られています。つまり、神さまは、イエス・キリストによって、私たちを神の子にしてくださったのです。ここで言われているイエス・キリストによって、というのも、イエスさまの十字架の救いによって、ということです。霊的な祝福、その第二は、私たちは、イエスさまによって神の子とされた、ということです。
次に7節をお読みします。
1:7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
ここで語られている霊的な祝福は、私たちは、罪を赦された、ということです。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」。ここにも、「この御子において」とありました。「御子」とは、神さまのみ子であるイエス・キリストのことです。「その血によって贖われ」とは、イエスさまが十字架におかかりになり、血を流された。ご自分の命をささげられることで、私たちは贖われ、罪を赦された、ということです。
そして、11節です。
1:11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。
「約束されたものの相続者とされました」と語られています。14節には、このことについて、「御国を受け継ぐ」とあります。つまり、約束されたものとは、天の国を相続する者、天の国を受け継ぐ者とされた、ということです。ここにも、「キリストにおいて」とあります。善い行いをしなければ、天の国に入ることはできない、ということではありません。「キリストにおいて」、イエスさまによって罪を赦していただいて、私たちは天の国に入る者とされたのです。これが、第四の霊的な祝福です。
以上、四つの霊的な祝福について、お話ししました。もう一度、この四つの祝福を言いますと、⑴私たちは、キリストによって選ばれた。⑵私たちは、キリストによって神の子供とされた。⑶私たちは、キリストによって罪を赦された。そして、⑷私たちは、キリストによって天の国を受け継ぐ者とされた、のです。イエスさまを救い主と信じて、クリスチャン、キリスト者として生きる私たちに、神さまはこのような祝福を与えてくださったのです。
では、神さまは、何のために、私たちに祝福を与えてくださったのか。そのことが、12節で語られています。
1:12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。
神さまが、私たちに霊的な祝福を与えてくださったのは、何のためなのか。それについて、こう言われていました。「神の栄光をたたえるため」。これについて、今日の聖書の個所の最初のところにも同じことが言われていました。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(3節)。私たちは、神さまの栄光をたたえるために、霊的な祝福が与えられています。私たちは、どのようにして、神さまの栄光をたたえることができるのでしょうか?実は、もうすでに私たちは、そのことを実行しています。どのようにして実行しているのでしょうか?今、私たちは教会に集まって、神さまを礼拝しています。これが、神さまの栄光をたたえるということなのです。キリストによって選ばれ、神の子とされ、罪を赦され、天の国を受け継ぐ者とされた私たちは、その感謝と喜びの心から、神さまを礼拝するのです。
(むすび)
13、14節をお読みします。
1:13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。1:14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
パウロは、霊的な祝福について語りました。私たちには霊的な祝福が与えられている。私たちは、キリストによって選ばれ、神の子とされ、罪を赦され、天の国を受け継ぐ者とされた。そう言われても、世のただ中を歩む時、いろいろな試練に遭うと、心が揺らぎ、信じられなくなってしまう。本当に自分には、神さまの祝福が与えられているのだろうか?罪が赦されたとか、天の国の希望とか、そんなことは現実ではない、と思ってしまう。そういう私たちにパウロは語るのです。あなたがたが今、どんな状況の中にあっても、あなたがたは祝福されている、霊的な祝福が取り去られることはない。なぜ、そう言えるのか、というと、あなたがたは「約束された聖霊で証印を押された」、「聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証」だから、と言うのです。聖霊、それは、神さまご自身のことです。聖霊が、すなわち、神さまご自身があなたがたに祝福を与えたことを約束しておられる、保証しておられる、とパウロは語っているのです。
「こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」。これが、今日お読みしました最後の言葉です。私たちは、今や「神のもの」とされました。私たちは神さまのものとして生きるのです。それは、自分の力や知恵を頼りにするのではなく、神さまをよりどころにして生きる、神さまに自分の人生を、自分自身をお委ねして生きるということです。お祈りいたします。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
使徒パウロは、エフェソの教会の信徒たちに、神さまの祝福が与えられていることを語りました。日々の人生の労苦、福音宣教の労苦ゆえに、神さまから与えられている恵みが見えなくなっていたかもしれません。私たちもそういうことが度々あります。
私たちは、キリストによって、すなわち、主の十字架の救いによって、選ばれた者、神の子とされた者、罪を赦された者、天の国を受け継ぐ者とされた。この神さまの恵みを思い起こし、主をほめたたえる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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