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「神の掟に生きる」ヨハネの手紙Ⅰ 2章7~17節 2024/09/15

「神の掟に生きる」ヨハネの手紙Ⅰ 2章7~17節 2024/09/15 赤塚教会礼拝説教

聖書―ヨハネの手紙一2章7~17節
(はじめに)
 明日は、日本の祝日で、「敬老の日」です。教会でも、毎年、この日に合わせて、「敬老の日」に近い日曜日に、敬老のお祝いを行ってきました。ところで、敬老の日には、高齢者の方々をお祝いしますが、高齢者の定義については、WHO(世界保健機関)では、六十五歳以上、日本では、七十歳以上だそうです。私たちの教会でも、これまで、七十歳を迎えた方々を高齢者としてお祝いしてきましたが、医療の進歩、食生活のことなど、様々な要因があって、果たして高齢者という言葉が当てはまるのだろうか、と思うことがあります。先日、東京の北地区の牧師会がありました。その中で、ある教会の話を聞きました。その教会は牧師が複数おられ、そのうちの三人が七十歳以上ということですが、次の世代の後継の牧師が与えられることを祈りつつ、それまでは生涯現役のつもりで頑張っているのだ、という話でした。牧師が生涯現役ということについては、考えは様々だと思いますが、キリスト者として生きる、キリストに従う、ということにおいては、すべての人は生涯現役だと思います。私たちの教会も次の世代が起こされるように、祈りつつ、お互いが生涯現役のつもりで、主のご用のために励んでいこうではありませんか。主の良き働き人として、お互いに励んでいきましょう。しかし、疲れや弱りをおぼえるようなこともありますから、お互いに励まし合っていきましょう。今日の日を主の働き人として、互いに励もう、互いに励まし合おう、そういう日としておぼえてみてはいかがでしょうか。

(聖書から)
 さて、今日の聖書個所は、ヨハネの手紙一2章7節以下です。私たちの教会で使用している新共同訳聖書では、「新しい掟」という小見出しが付けられていました。掟というと、あまり良いイメージを持たないかもしれません。別の訳では、「戒め」(口語訳、聖書協会共同訳)、「命令」(新改訳)となっています。私の持っている国語辞典では、この掟という言葉について、「とりきめ。定め」(岩波国語辞典)とありました。掟、戒め、命令、どれも厳めしいイメージがあるように思いますが、取り決めという言葉だと、比較的抵抗がないかもしれません。7、8節をお読みします。
2:7 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。2:8 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
 この手紙の著者であるヨハネは、「新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟」と書きました。「新しい掟」と言っておきながら、これは「古い掟」なのだ、と言っているのです。この言葉からは、何か「新しい掟」と言われるものに対して、抵抗がある人たちがいたようです。そこで、「新しい掟」と言われるものと「古い掟」とは、決して別なものではない。「新しい掟」と言われるものは、あなたがたが受けてきた、聞いてきた「古い掟」と同じことなのだ、と言っているようです。
古い掟、新しい掟というと、皆さんは聖書のことを思い浮かべると思います。聖書は、大きく分けると、二つの文書になります。一つは、旧約聖書、もう一つは、新約聖書です。旧約聖書というのは、古い(旧い)契約、そして、新約聖書というのは、新しい契約です。古い契約とは何かというと、神さまとイスラエルの民の間には、契約関係があるということです。それはイスラエルの民が、神さまの掟、取り決めに従って生きるなら、神さまはイスラエルの民を守ってくださるという約束です。そして、新しい契約とは何かというと、神さまとすべての人間の間には、契約関係があるということです。すべての人間、私たちもその中に含まれますが、私たちが、神さまの掟、取り決めに従って生きるなら、神さまはすべての人間を守ってくださるという約束です。
 ヨハネの手紙が書かれた時代には、まだ新約聖書はありませんでした。けれども、イエスさまがこの世においでになって、人々になさった救いの働きや人々に語られたことが言葉としてまとめられました。そのまとめられた言葉を、最初の時代のキリスト者たちは、イエスさまは神の子だ、救い主だ、と信じていましたから、神さまの言葉だと、信じ、従っていきました。当時、まだ新約聖書のなかった時代、今の私たちが、旧約聖書としているものだけが聖書でしたから、それ以外の何か得体のしれない新しい教え、掟を守っているあの人たちは何だろうか?と不審がられていました。そこで、ヨハネはこの手紙で、あなたがたが今まで大切に守ってきた掟、つまり、「古い掟」(旧約聖書のこと)と、イエスさまがなさった働き、言葉、あなたがたにとっては、「新しい掟」と思われるものとは、別の教え、異なった教えではない。共通した教えが書かれている、と言ったのです。9節以下をお読みします。
2:9 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。2:10 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。2:11 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。
 光の中にいる、とは何でしょうか?ヨハネの手紙では、神さまは光であると書いています(1章5節)。その神さまの中にいるというのは、神さまとの交わりに生きる(1章3節)ということです。ところが、自分は、光の中にいる、神さまとの交わりに生きている、と言いながら、実際には、その人の生き方が、愛するという生き方ではなく、憎むという生き方になっているならば、闇の中にいることなのだ、というのです。神さまから離れている状態なのだ、というのです。私たちが、神さまに真面目に、真剣に従っていこうとすると、「ああ、自分は光の中にはいない。神さまから離れてしまっている・・・」。そういう嘆きの言葉が出てくるかもしれません。しかし、続く12節以下には、このようなことが書かれています。
2:12 子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからである。
2:13 父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。
若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
2:14 子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが御父を知っているからである。
父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。
若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
 ここで、ヨハネは、「子たちよ(子供たちよ)」、「父たちよ」、「若者たちよ」という呼びかけをしています。各世代別の人たちへの呼びかけのように思えます。これについては、二つの理解があります。一つは、文字通り、各世代への呼びかけです。そして、もう一つは、信仰の成長の度合いに応じての呼びかけです。どちらが正しいのかは分かりませんが、ヨハネが神さまを信じて集められた人たちをそれぞれの世代、あるいは信仰の成長に応じて、必要な言葉を語っていることに注目したいと思います。
 私は、この聖書個所を読んで、私たちの教会で行われている教会学校のクラスのことを思い起こしました。私たちの教会では、毎週の礼拝と共に、教会学校が行われています。それも素晴らしいことに、大人から子供まで、各世代別に行っています。『聖書教育』という日本バプテスト連盟で発行しているテキストをもとに、学びを行っていますが、これも各世代が使いやすいように工夫されています。
 では、ヨハネがなぜ、このような呼びかけをしたのか、というと、自分が光の中ではなく、闇の中にいるように思える私たちに対して、失望落胆しないように、と語っているのです。私たちは、自分を見つめていくと、自分は神さまを信じていると言いながら、闇の中にいるように思えてくる。自分の罪深さ、弱さ・・・、そういうものばかりが見えてくるかもしれません。しかし、そういう私たちのために、イエスさまがおいでになったのです。イエスさまがおいでになったことによって起こってくること、それが、「イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されている」(12節)、「あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っている」、「あなたがたが悪い者に打ち勝った」(13節)、「あなたがたが御父を知っている」、「あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っている」、「あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝った」(14節)ということなのです。これらはすべて、イエスさまが実現してくださったことなのです。
 ですから、私たちが、主によって呼び集められ、一緒に礼拝を行う時、教会学校で聖書を学ぶ時、また祈る時も、互いにこの言葉をもって励まし合っていきたいと思うのです。お互いが、神さまによって罪赦された者とされたこと、お互いが、神さまによって神さまを知る者とされたこと、お互いが、神さまによって悪い者に打ち勝つ者とされたこと。そのことを感謝して歩みたいと思うのです。

(むすび)
 今日の聖書個所の最後の言葉をお読みします。
2:15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。2:16 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。2:17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
 ここで言われていること、それは、神さま以上に世の中のことを愛してはならない、何よりも、誰よりも神さまを愛しなさい、ということです。イエスさまは、ある時、律法の中で最も大切な掟は何ですか?と尋ねられました。イエスさまはこのようにお答えになりました(マタイ22章37~40節)。
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 22:38 これが最も重要な第一の掟である。 22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 イエスさまは、二つの掟を示されました。それは、神さまを愛すること、隣人を愛することです。この二つの掟は、旧約聖書に書いてあることでした(申命記6章5節、レビ記19章18節)。イエスさまは、古い掟である旧約聖書の言葉を、新しい掟として、人々に語られました。しかし、この神さまの掟は、私たちがどんなに努力しても、自分の力で守ることはできません。神さまの掟を守ろうとすればするほど、私たちがいかに罪深い者であるか、気づかされるばかりなのです。そういう私たちのために、イエスさまはおいでになりました。イエスさまが私たちと共に歩んでくださることによって、イエスさまは私たちが神さまの掟を守ることができるように導いてくださるのです。17節には「神の御心を行う人」とありました。私たちは、イエスさまと共に歩む時、イエスさまによって、神さまのみ心を知る者とされ、神さまのみ心を行う者とされるのです。今日の話の初めに、生涯現役で主に従っていきましょう、とお話ししましたが、イエスさまが私たちの人生を最期まで、歩んでくださることを忘れないでいたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
  古い掟、新しい掟とありましたが、聖書は一貫して神さまの愛を、神さまの言葉を語っています。しかし、私たち人間は、罪があるために、どんなに自分で努力しても、神さまの言葉に従うことができません。そういう私たちのために、神さまはご自分の大切なみ子であるイエスさまをお送りくださいました。イエスさまと共に歩む時、イエスさまは私たちを罪から救い出して、神さまの言葉に従って生きるように導いてくださいます。どうか、イエスさまを受け入れて、新しい歩みをすることができますように、私たちを導いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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