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神のみ前で安心する ヨハネの手紙Ⅰ 3章19〜24節 2025/02/16 

神のみ前で安心する ヨハネの手紙Ⅰ 3章19〜24節 2025/02/16 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―ヨハネの手紙一3章19~24節
(はじめに)
 お読みした聖書は、ヨハネの手紙一です。この手紙は、ヨハネという人が書いた手紙と言われています。この説教の準備をするために、この手紙を最初から読み直してみました。ヨハネは、この手紙を読む人たちをこのように呼んでいたことが分かります。「愛する者たち」、「子たち」。この呼び方から、ヨハネが、まるで自分の子どものような心で語りかけていたことが分かります。
 聖書は、神さまからのラブレターと言われます。私たちは、聖書を読む時、神さまが私たちに愛を持って語りかけてくださっていると受け止めて聴いていきたいと思います。このヨハネの手紙のことで言うなら、神さまがヨハネを通して、私たちに語りかけてくださっていると受け止めて、神さまの言葉を聴くことができたら幸いだと思います。

(聖書から)
 19節をお読みします。
3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、
新共同訳聖書では、19節の最後が、点になっていますので、19節と20節を一緒に読むように訳しているように思いますが、まず、19節をお読みしました。ここには、「安心」ということが言われていました。安心というと、私たちは、安心を求めて生きている者ではないでしょうか。生活のこと、健康のこと、家族のことなど、考えれば考えるほど、心配なことばかりです。私たちは少しでも安心したいと思います。この聖書の言葉には、安心、「神の御前で安心できます」とありましたが、これはどんな安心なのでしょうか。
19節の最初の言葉は、「これによって」ということでした。つまり、この箇所の前に書かれている言葉を受けて、言われているのです。この箇所の前に書かれている言葉、3章11~18節には、「互いに愛し合いなさい」という小見出しが付けられていました。互いに愛し合うことの勧めが書かれています。そうしますと、私たちが、互いに愛し合う。そのことによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神さまのみ前で安心できる、ということになるでしょうか。
まず、互いに愛し合うことで、私たちは自分が真理に属していることを知る。このことについて、考えてみましょう。真理ということが言われていましたが、これは、この手紙の2章20、21節にも書かれていました。
2:20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。2:21 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。
 ここで「あなたがた」というのは、神さまを信じる一人一人のことです。「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」とあります。聖なる方とは、神さまのことです。神さまは、ご自分を信じる一人一人に油を注いでくださったのです。その油とは、聖霊のことです。私たちは、神さまから聖霊を注がれたのです。その聖霊によって、私たちは真理を、神さまの真理を知ることができるというのです。
 私たちが、聖書を、人生をうまく生きていくための処世術として読むならば、それは、的外れの読み方です。例えば、何か得をするために、という目的で読もうとするなら、聖書からは、おそらくそれとは正反対のことを聞くことになるでしょう。聖書は、得になる生き方ということを教えていないと思います。イエスさまは、得になる生き方、偉くなる生き方ということは教えておられないと思います。むしろ、互いに愛し合うこと、互いに仕えることを教えられました。私たちは、聖書から、神さまの真理を知ります。けれども、私たちの知識、知恵、理解力、考え方といったものだけでは、神さまの真理を知ることはできません。そういう私たちのために、神さまは、真理を知ることができるように、分かることができるように、聖霊によって、助け導いてくださるのです。
 19節に戻ります。神さまの真理。もっとかみ砕いて言うならば、神さまのお考えとか、神さまの思いと言ったらよいでしょうか。神さまは、私たちに真理を知り、真理に従って生きるように求めておられます。その具体的な教えとして、互いに愛し合いなさい、ということが語られているのです。私たちは、互いに愛し合いなさい、という教えを聞くと、本当にそうだ、そのように生きていきたい、と願うのではないでしょうか。そして、自分が神さまの真理に属する者、神さまのものとされているということを示されるのです。
 そして、この言葉が続きます。「神の御前で安心できます」。私たちは自分が何者であるのか、というと、神さまに属する者、神さまのもの。そのことを知って、安心するのです。ところが、その後には、このようなことが言われています。
3:20 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。
 先ほどもお話ししましたが、新共同訳聖書では、19節の「神の御前で安心できます」という言葉と一緒に、「心に責められることがあろうとも」という言葉を読ませたかったようです。というのは、今お話ししたように、「神の御前で安心できます」という安心というのは、自分が神さまに属する者、神さまのものとされている。そういう自分という人間の存在についての安心です。しかし、「心に責められることがあろうとも」という言葉を一緒に読むと、もう一つ、別の意味での安心ということが示されるのです。
 「心に責められること」。誰の心のことを言っているのでしょうか?「心に責められること」、この後には、「神は、わたしたちの心よりも・・・」という言葉が続いています。すると、「心に責められること」というのは、私たちの心のことを言っているようです。
 私たちの心が責められる。自責の念ということです。例えば、互いに愛し合いなさい、ということを、神さまが私たちに語っておられる、命じておられるということで、私たちは、この言葉を聞き、この言葉に従っていこう、この言葉のように生きていこう、と努めます。しかし、私たちがこれを実際に行っていこうとするなら、何と難しいことでしょうか。そして、愛せないという現実にぶち当たった時、私たちは、自分の心を責めるのではないでしょうか。ああ、自分は、人を愛することができない、何と、愛の乏しい者だろうか・・・。私は、自分の心を責めるということ自体は、大事なことだと思います。自分の愛の無さ、自分の罪深さ、そういったことに気づいて、反省したり、悔いたりすること、それは大事なことだと思います。自分の現実を知る、自分を見つめ直す、そういう意味では大事なことだと思います。
 ヨハネは、続いて、このようなことを書いています。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」。ここで言われていることは何でしょうか?正しく生きていきたい。神さまに従って生きていきたい。けれどもそれができない。そうすると、自分を責めてしまう。そういう私たちに対して、神さまの心は、私たちの心よりも大きく、すべてをご存じだ、というのです。
 私たちは、自分を責めたり、裁いたり、赦さない。人に対してもそうです。人を責めたり、裁いたり、赦さない。しかし、神さまは、そうではないのです。神さまは、互いに愛し合うことができないでいる、神さまの言葉に従いえないでいる、そういう私たちを責めることはなさらない、裁くことはなさらない。そういう私たちをお赦しになっておられる。だから、私たちは、神さまのみ前に出ることができる、安心することができるのです。
 「すべてをご存じだから」とありました。神さまは、私たちの何もかもご存じです。どんなに愛の無い、自分勝手な私たちのこともすべてご存じです。私たちのすべてを知っておられても、その愛は変わらないのです。私たちのすべてを知っておられても、それでもなお、互いに愛し合いなさい、と語っておられるのです。
 21、22節をお読みします。
3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
 ここには、確信ということが言われていました。「わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ・・・」。私たちは神さまから責められない、神さまから赦されている。その確信ではないでしょうか。こんな私だけれども、神さまは責めておられない、こんな私を神さまはお赦しになっている。だから、私も、もう自分自身を責めることはしない、他者を責めることはしない。神さまの大きな愛、大きな赦しを知った驚き、喜びが語られているのではないでしょうか。
 22節に「神に願うことは何でもかなえられます」とありました。ここだけ読むと、勘違いしてしまうかもしれません。自分勝手な、自分の欲望を満たす願いでも、何でも神さまはかなえてくれる・・・。そういうことが言われているのではありません。これに続いて、このようなことが言われています。「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです」。ここで言われている神さまに願うこととは、神さまの掟を守ろうとする、神さまのみ心に適うことを行おうとする、そこから出てくる願いです。

(むすび)
 祈祷会で、教会の兄弟姉妹の皆さんと一緒に祈りを合わせます。私は、皆さんの祈りの言葉を聞くと、私は本当に励まされ、嬉しくなります。神さまの福音が宣べ伝えられることを祈る、主にある兄弟姉妹がお互いのことを思い、祈る。神さまを愛すること、互いに愛し合うこと。そのことが祈りにおいて実現しているからです。
互いに愛し合うことは、本当に難しいことです。人間のわざではできないことをいやというほど、私たちは思い知らされているのではないでしょうか。けれども、聖書は、このように私たちに語ります。
3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。3:24 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。
 「神の掟を守る人」。それは、神さまの言われることに従おうと努める人のことです。私たちは、自分ができる、できない、ということよりも、神さまが、私たちを互いに愛し合う者としてくださる。神さまが、私たちを神さまの愛のわざのために用いてくださる。そのことに目を向けていきたい、そのことを祈っていきたいと思うのです。それが、今日の聖書箇所の小見出しにもありますように、『神への信頼』、神さまを信頼すること、信じるということです。神さまの力、神さまのみわざに期待していきましょう。お祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 あなたは私たちに大切なみ子イエス・キリストをお送りくださったことを感謝します。
 私たちは、神さまの真理を、神さまご自身を知ることも信じることもできませんでしたが、イエスさまをお送りくださって、神さまの愛を教えてくださいました。そして、聖霊によって、神さまの真理を知ることができるようにしてくださいました。
 私たち自身は、無力で、すぐに罪に陥ってしまう者ですが、主が共におられ、私たちを互いに愛し合う者、神さまの愛のわざに生きる者として導いてくださいます。そのことを信じて、新しい日々を歩ませてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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