
そこから信仰は始まる(マタイ17章14~20節)【週報巻頭言】2025年5月25日
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
(マタイ17章20節)
私たちは、神さまの前に立つ時、自分の信仰を誇ることはできません。なぜなら、そもそも信仰とは、神さまが私たちに与えてくださったものだからです。それなのに、私たちは、自分の信心深さ、自分の行いを誇ってしまうことがあります。自分が強くあろう、大きくなろうとすることが信仰ではないのです。
「信仰」という言葉は、「信頼」とも訳すことができる言葉です。神さまを信頼する。私たちは、いついかなる時でも神さまを信頼することができるでしょうか?事が順調に進んでいる時は、神さまを信頼することができるかもしれません。ああ、神さまは私を愛しておられるのだ。神さま、感謝します、ありがとうございます!と喜んで言うことができるかもしれません。しかし、何か試練に遭うと、信頼も何もできなくなってしまう。どうして、私はこんな目に遭わなければならないのか?神さまは私を愛しているのだろうか?不安、疑い、迷い、恐れに支配され、信仰どころではなくなってしまう。すると、私たちの信仰というものは、からし種一粒ほどもないことが分かります。
弟子たちは、自分たちはあの子供を癒せなかった・・・。そういう自分に失望し、がっかりしていました。イエスさまからは、信仰が薄いから癒せなかったのだ、と言われてしまいました。でも、そこからが、本当の信仰の始まり、本当の信仰の出発なのです。「そうです、主よ、あなたが言う通り、自分には信仰があると思っていたけれども、信仰も何もありません」。そう言わざるを得ないような弟子たちでした。けれども、そういう弟子たちに主は呼びかけられました。からし種一粒ほどの信仰でいいから、私のもとに来なさい。私を信頼して、私と共に歩もうではないか。その呼びかけを受けて、この方に従っていこう、この方についていってみよう。自分の無力さ、足りなさ、弱さに気づいた時、向き合えた時、そこから信仰は始まるのです。
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