
自由に生きる(マタイ17章22~27節) 【週報巻頭言】2025年6月1日
イエスさまは神殿税の話を通して(マタイ17章24~27節)、神さまの子供の自由について語られました。自由というと、私たちは勝手気ままに生きるとか、好きなように生きるということを考えるかもしれません。しかし、イエスさまは、そういう意味で、自由と言われたわけではありません。私たちが、イエス・キリストを信じて知らされた、体験した自由は、罪からの自由です。そして、神さま以外の何ものにも支配されない自由です。神さまは、私たちを自由な者としてお造りになり、生かしてくださいました。私たちは、それぞれが一人の人間、一人の人格として生きる者、自分で自由を選び取っていくのです。ただ、その自由をどのように使うか、このことが大切なことです。神さまに祈り、神さまの言葉に聴きながら、神さまから与えられた自由をどのように使うか、考えていくのです。
ガラテヤの信徒への手紙5章13節には、このような言葉が書かれています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。ここには、自由をどのように使ったらいいのかということが教えられています。「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」とあります。愛のために、互いに仕え合うために使いなさい、と言われています。模範となるのは、イエスさまです。イエスさまがそのように生きられたのです。私たちは、イエスさまの生き方に倣って、愛のために、互いに仕え合うために、与えられた自由を使っていくのです。与えられた自由によって愛する、互いに仕え合う。これは、別の言い方をしますと、愛すること、互いに仕え合うことを自主的に、自覚的に行うということです。人に強いられて行うとか、人に強いて行わせるということではないということです。私たちの信仰の歩みというのは、人からああしなさい、こうしなさい、と言われてするものではありません。一人一人が神さまの言葉を聴き、神さまに出会い、向き合い、そこから促されて、自分で決断して行うものです。そして、それこそが、神さまの子供の自由、神さまが教えてくださる自由な生き方です。
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