「あなたの光に、私たちは光を見る」詩編36編1~13節 2026年5月31日
(はじめに)
詩編の言葉を読みました。詩編というのは、祈りの言葉がまとめられたものと言われます。祈りについて学びたいなら、詩編を読むとよい、という勧めをよく聞きます。確かに詩編を読むたびに、この詩編に出てくる信仰者たちは、どのように神さまに祈っていたのか、どのように神さまに向き合っていたのかを教えられます。しかし、それは、この詩編の言葉だけではありません。私は、毎週行われている祈祷会で、教会の皆さんと祈りを合わせます。祈ること、祈られること、その喜びを味わっています。一緒に祈る人たちの祈りを聴くことで励まされます。教会の皆さんの祈り、神さまに心を向けて、様々な願いを、思いを祈られる。その祈りの言葉に、私が励まされ、支えられています。
(聖書から)
今日は、詩編36編の言葉をお読みしました。2節から、この詩編の内容となります。
36:2 神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。
「神に逆らう者」とあります。口語訳、聖書協会共同訳の聖書では、「悪しき者」となっていました。「悪しき者」と訳している聖書が多いのですが、新共同訳聖書では、分かりやすさを考えて、「神に逆らう者」と訳したようです。
「神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる」とあります。罪が、心の奥に語りかけるというのです。心の奥に語りかける、心に語りかける、とありますが、私たちの日々の生活の中では、いろいろな声が聞こえてきます。テレビやラジオの声が聞こえてきます。新聞などからも聞こえてきます。新聞には投書欄というものがありますが、そこからも声を聞きます。今はインターネットが普及しましたから、そこからもいろいろな声を聞きます。SNS、これはソーシャル・ネットワーキング・サービスという言葉の略だそうですが、ツイッターやFacebook、YouTubeといったものからも声を聞きます。人々の声を聞くということは、大事なことです。いろいろな状況、心境にある人たちがいることを知ります。しかし、あまりにもその声を聞き過ぎて、その声に振り回されてしまったり、押しつぶされてしまったりすることもありますから、その点は気をつけなければなりません。
ところで、「神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる」。この「神に逆らう者」とは誰のことでしょうか?私たちが思い当たる、あの人のこと、この人のことでしょうか?いいえ、「神に逆らう者」とは、この私のことです。この私は神さまに逆らってしまうことがあるのです。それは何によってでしょうか。罪によってです。罪が語りかけるのを聞く。罪の声を聞くと言ってもいいでしょう。そして、その声を心に受け入れてしまうことで自分が神さまに逆らってしまうのです。
この言葉に続いて、「彼の前に、神への恐れはない」とありました。神など、恐れるものか、と考えることです。神さまを恐れない、神さまに対する畏れがない。罪というのはどういうものかというと、私たちを神さまから引き離すものです。神さまの愛を否定するもの、神さまの赦しを否定するものです。そして、神さまに対する畏れをなくしてしまうものです。
3節をお読みします。
36:3 自分の目に自分を偽っているから/自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。
「自分の目に自分を偽っている」。これはどういう意味でしょうか。この言葉について、二つの聖書の訳を参照してみたいと思います。一つは、聖書協会共同訳です。「彼は自分の過ちを認め、憎むはずが 自分の目で自らにへつらった」。「自分の目で自らにへつらった」。もう一つは、新改訳2017です。「彼は自分の判断で自分を偽り 自分の咎を見つけて それを憎む」(新改訳2017は2節)。「自分の判断で自分を偽り」と訳しています。
「自分の目」とは何かというと、今お読みした新改訳2017では、「自分の目」を「自分の判断」と訳しています。私たちの人生というのは、毎日、何かを判断する、選択するというものだと思います。この前、あるプロ野球の監督が家庭の問題で急遽、辞任するということがありました。報道されている内容を聞きますと、その良し悪しはともかく、何か事が起こった時に、どのように判断したらよいのか、選択したらよいのか、何が最善の判断なのか、選択なのか・・。そういったことを考えさせられました。
聖書の言葉に戻りますと、新共同訳で「自分の目に自分を偽っている」というところが、聖書協会共同訳では、「自分の目で自らにへつらった」とありました。「自らにへつらった」。自分自身にへつらう。別の訳では、この「へつらう」というところが「おもねる」(口語訳)と訳されていました。へつらうとか、おもねるというと、誰か他人に対して、へつらう、おもねる、ということでは使いますが、自分自身にへつらう、おもねる、というのは、ほとんど使うことはないと思います。自分自身にへつらう、おもねる。どう理解したらよいのでしょうか。
自分自身にへつらう、おもねる・・・。私は、この言葉についていろいろと考えてみましたが、自分自身にへつらう、おもねるというのは、自分を客観的に見ることができない状態のことだと思います。自分自身が基準になっている、自分自身の物差しでしか見ることができなくなっている状態と言ったらいいでしょうか。自分を客観的に見ていくということは大事なことだと思います。自分を客観的に見るというのは、自分が基準、自分が物差しではないということです。自分が基準ではない、物差しではない。では何を基準にするのか、物差しにするのかというと、聖書を基準にする、物差しにするのです。教会では聖書を正典として読みます。正典というのは、私たちの生きる基準、物差しということです。私たちは、自分の生き方、生活というものを聖書の言葉に照らし合わせながら歩んでいくのです。
聖書の言葉の中に「悔い改め」という言葉があります。これは、自分の生き方を方向転換する、向きを変えるということです。もしも、自分が基準になっているなら、自分を客観的に見ることをしないなら、その必要はないと思うでしょう。しかし、聖書の言葉から自分を見つめていくと、自分は神さまの言葉から離れているのではないだろうか。神さまや他人のことを考えないで、自分のことばかり考えているのではないだろうか。そういうことに気づくのです。そのようにして自分の本当の姿が見えてくるのです。一方、3節後半には、「自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない」とありました。これは自分の本当の姿が見えていない状態のことだと思います。自分には悪いところはない、罪がない、改善しなければならないことなどない・・・。そして、お読みしませんが、この後の4、5節に書いてあることは、そういう人の生き方が表されているように思います。私たちも注意しなければ、誰もが、このような生き方に陥ってしまうのです。
ここまで読むと、とても厳しい言葉が語られているように思いますが、6節以下には、それまで書かれていることから一転しているような内容になっています。
36:6 主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。
36:7 恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。
36:8 神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ
36:9 あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。
36:10 命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。
5節までに書かれていたことは、私たち人間の現実、罪の現実と言える内容だったと思います。使徒パウロは、私たち人間について、このように書いています(ローマ3章9~12節)。
3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
「皆、罪の下にある」、「正しい者はいない。一人もいない」。神さまの前に立つ時、私たちはみんな罪の下にあるのです。誰一人、正しい者はいないのです。そういう私たちはどうしたらよいのでしょうか?詩編の言葉に戻ります。詩編36編6節以下の言葉からは、慈しみ、恵みという言葉が繰り返し書かれていました。神さまの慈しみ、神さまの恵み、それが、私たちを罪から救うのです。10節には、「命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る」とありました。この「あなたの光に、わたしたちは光を見る」ということについて、このような説明があります。「人間は神さまの光によって自分を正しく認識し、人生の目的を知ることができる」(『実用聖書注解』 いのちのことば社)。
先ほど、3節の「自分の目」について、「自分の判断」(新改訳2017)と訳している聖書があることをお話ししましたが、私たちが、自分の人生を自分で判断し、選択していかなければならないのは、確かなことです。しかし、私たちが、神さまの光によるなら、自分を正しく認識することができる、人生の目的を知ることができるのです。詩編119編105節の言葉をお読みします。
119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
神さまの言葉は、私たちの人生の道を照らす光であるということが語られています。神さまの言葉に聴きながら、尋ねながら歩む時、神さまは私たちに最善の、最も良い判断を、選択を導いてくださるのではないでしょうか。
(むすび)
11、12節の言葉をお読みします。
36:11 あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。
36:12 神に逆らう者の手が/わたしを追い立てることを許さず/驕る者の足が/わたしに迫ることを許さないでください。
詩編は祈りの言葉と言いましたが、この11、12節の言葉は、まさに祈りの言葉であると思います。特に11節は印象深い祈りの言葉です。「あなたを知る人」、「心のまっすぐな人」とあります。これは、自分とは関係ない、純粋な、熱心な信仰の人のことだと思われる方があるかもしれませんが、私はそうではないと思います。私たちのことが、ここにおられる皆さんのことが言われていると思うのです。「あなたの光に、わたしたちは光を見る」とありました。私たちが、神さまの光に照らされていく時、私たちは、神さまを知る者とされていく、神さまに心を向ける者とされていくのです。そういう私たちは、お互いのことを「慈しみが常にありますように」、「恵みの御業が常にありますように」と祈っていきたいと思うのです。それではお祈りいたします。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちは、自分の目で、自分の判断だけで生きていくなら、本当の自分を知ることはできません。自分の罪に気づくこともできません。しかし、神さまの光に照らされるなら、本当の自分を知ることができます。罪を知り、何が真実であるか、本当に良いことであるか知ることができます。
「あなたの光に、わたしたちは光を見る」。詩人は、神さまの慈しみ、恵みによって、神さまの光に照らされて生きることの喜びを祈っています。私たちもこの喜びに生きる者、そして、祈る者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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