「執り成し」創世記18章16~33節 2026年7月26日
(はじめに)
お読みしました聖書の箇所について、新共同訳聖書では、「ソドムのための執り成し」という小見出しが付いていました。ソドムとゴモラというと、罪の町として知られています。またソドムとゴモラのことを題材にした文学作品や映画も多数あります。その内容というのは、人間の罪深さ、罪の中にある人間の悲惨さといったものが表されています。
今日の箇所では、アブラハムがソドムのために執り成しをしたことが書かれていましたが、執り成しとはどういう意味でしょうか?私の手元にある国語辞典(『岩波国語辞典』)で「執り成す」の項目を見てみると、「よいようにはからう。①とりつくろう。②仲裁する。仲直りさせる。③なだめて機嫌よくさせる」とありました。ある人とある人の間を取り持つ、仲直りさせる。これが一般的な意味での「執り成す」という意味ですが、聖書ではどういう意味があるかというと、人と人の間を執り成すというだけでなく、神さまと私たち人間の間を執り成すということで使われています。今回の聖書の内容もそうです。アブラハムは、罪によって、神さまとの関係が崩れてしまった人間と神さまとの間を執り成そうとしました。
(聖書から)
アブラハムのところに三人の人たちが訪ねてきた。それが18章の前半に書かれている内容でした。続いて読んでいきますと、その人たちについて、神さま、あるいは神さまの使いであったことが示されています(13節以下)。そして、彼らはアブラハムのいるところから旅立とうとしているのが16節以下の場面です。16~22節をお読みします。
18:16 その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。18:17 主は言われた。
「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。18:18 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。18:19 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
18:20 主は言われた。
「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。18:21 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
18:22 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
旅人たちについて、「主は言われた」(17節)と書かれていますが、もう一度、神さまが言われたことを読んでみます。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」(17~19節)。
神さまはアブラハムについて、このように語られました。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」。アブラハムの子供たち、子孫たちが、アブラハムによって祝福を受ける。それはアブラハムという人が子供たち、子孫たちの祝福の基となる、ということです。また、このようなことも語られていました。「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」。アブラハムが、子供たち、子孫たちに主の道を守り、主に従って行なうように、と命じるように。これがアブラハムを選んだ理由であり、またアブラハムの使命ということです。
神さまがアブラハムに語られた言葉、アブラハムの選び、アブラハムの使命ということをお話ししましたが、このことは現代の私たちの教会、キリストを信じる私たちのことと重ねて考えてもよいと思います。私たちは神さまによって救いにあずかりました。それは私たちによって、人々が神さまの祝福を受けるため、私たちが人々に、主の道を守り、主に従って正義を行うように語るためなのです。ですから、私たちも、アブラハムと同じように、大きな使命、責任が与えられているのです。主の道を守ること、主に従って正義を行なうことを命じなさい、というのは、私たちにとっては、人々に聖書が示すイエス・キリストをお伝えしなさいということです。そして、神さまの祝福を受けるとは、私たちを通して語られるイエス・キリストの救いを受けるということです。
さて、今日の聖書個所に戻って、20~22節をもう一度、お読みします。「主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた」」。
神さまは、ソドムとゴモラの罪を確かめに行かれるというのです。この話を聞いたアブラハムについて、「アブラハムはなお、主の御前にいた」とあります。これはどういうことでしょうか?アブラハムは、ソドムとゴモラの罪について聞き、その罪のゆえに彼らが裁かれなければならない、と思うと、大変ショックで、神さまの前に立ち尽くしてしまったということではないでしょうか。アブラハムは、ソドムとゴモラの人々のことを思うと、大変心を痛めたのです。その思いから次のようなことを神さまに言っています。
18:23 アブラハムは進み出て言った。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。18:24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。18:25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
これはただ神さまに申し上げた、という程度のことではなく、神さまに訴え出た、ということです。とても切実な訴えです。「あの町に正しい者が五十人いるとしても・・・」と言っていますが、「正しい者」というのは、まったく罪のない、完全な者ということではありません。神さまを信じる者のことです。自分の罪を知り、悔い改めて生きる者のことです。そういう者が五十人いるとしたら、あの町をお赦しください!そういう訴えです。これが小見出しにもありましたアブラハムの執り成しです。
すると、神さまはアブラハムのこのように答えられました。
18:26 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
神さまの答えがこうでした。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」。このやり取りを読んで分かることは、アブラハムは正しい者と悪い者とが一緒に住む町、その町の中の正しい者だけを助けて、悪い者は滅ぼしてしまってください、とは願っていなかった、ということです。そして、神さまも「その者たちのために、町全部を赦そう」と言われているということです。アブラハムは、その町に五十人の神さまを信じる人がいるなら、その町のすべての人たちを赦してください、と祈っているのです。神さまは、その祈りに対して、五十人の神さまを信じる人がいるなら、町にいるすべての人を赦そう、と言われるのです。
今日の箇所では、何度か、「正義」(19、25節)という言葉が出てきます。私たちは正義というと、どういうことを考えるでしょうか?正義と悪というと、正義が悪を退治する・・・。人間の場合はそうです、しかし、ここでの正義というのは、人間の正義ということではありません。神さまの正義ということです。
話はこの後も続きます。神さまとアブラハムとの間で同じようなやり取りが続きます。正しい人が、四十人でもいるなら、三十人でもいるなら、二十人でもいるなら、十人でもいるなら何とか救ってください!ソドムの町の人々が救われてほしい、というアブラハムの思いがあったと思います。
今日の最後の32、33節を読んでみます。
18:32 アブラハムは言った。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
18:33 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
何度も何度も神さまに、人々の救いについて交渉を続ける、訴え続けるアブラハムです。このやり取りから、私たちが教えられることは、私たちも、人々の救いを真剣に願い求めることです。私たちもアブラハムに倣って、執り成しの祈りをしていきたいと思います。そして、人々の救いを祈っていきたいと思います。
(むすび)
私は今回、この神さまとアブラハムのやり取りを読みながら、イエスさまが十字架の上で祈られた言葉を思い起こしました。ルカによる福音書23章32~34節です。
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
イエスさまが十字架におかかりになった場面です。イエスさまの両脇にはそれぞれ犯罪人が一緒に十字架につけられているという場面です。この犯罪人のためにイエスさまが言われた、祈られた言葉が書かれています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。「自分が何をしているのか知らない」。それはイエスさまと同じように十字架につけられている右と左にいる犯罪人のことだけではなく、イエスさまを十字架につけた人たちのこと、そして、今、ここにいる私たち一人一人のこと、それだけではなく、すべての人のことを言われたのです。自分の罪を知らない。自分は罪がないと思っている。そういう私たちのために主は執り成しの祈りをなさったのです。「父よ、彼らをお赦しください」。その祈りのゆえにイエスさまは私たちのすべての罪をご自分が担うために十字架におかかりになったのです。これこそが神さまの正義です。人間の正義は罪人を告発し、断罪する正義です。しかし、神さまの正義は違います。神さまの正義、それは、神さまのみ子であるイエス・キリストが私たちの身代わりとなって、十字架にかかり、私たちを罪から救い出してくださった、というものです。私たちは、この神さまの正義によって、つまり、イエスさまの執り成しによって、罪によって死ぬべき者、滅ぶべき者であった私たちが命へと、生きる者とされたのです。神さまによる執り成し、十字架の救いをいつもおぼえて歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
アブラハムは執り成す者として、神さまの前に出ました。罪に陥った人たちが神さまとの関係を回復するようにと、神さまに執り成しました。
イエス・キリストは、私たちのために執り成してくださいました。それは、私たちの罪をすべてご自身がお受けになるという方法で執り成してくださいました。
私たちは、イエス・キリストによる執り成しを忘れることがありませんように。この私のために、あなたのために主は十字架にかかり、執り成してくださったこと、神さまとの関係を回復してくださったことに感謝し、人々にこの救いを伝えていく者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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