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「後ろを振り返ってはいけない」創世記19章15~29節 2026年9月27日 

後ろを振り返ってはいけない 創世記19章15~29節 2026/ 9/27 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 礼拝で月に一度、創世記からお話ししています。前回は、先々月の礼拝でしたが、創世記18章からお話ししました。そこに書かれていたことは、アブラハムが、まるでお店で値段の交渉をするようにして、神さまと交渉したという話でした。アブラハムは何を神さまと交渉したのかというと、救いについての交渉でした。「ソドムとゴモラの罪は重い」と訴える叫びを聞いた神さまは、そのことを確かめようとされた、ということです(18章20節以下)。すると、その話を聞いたアブラハムは、神さまに滅ぼさないでほしい、と願います。ソドムの町に五十人でも正しい人がいたら、滅ぼさないでほしい。そこに四十五人でも正しい人がいたら・・・、四十人でも正しい人がいたら・・・、いや三十人でも、二十人でも、十人でも・・・。アブラハムは粘り強く神さまに願いました。そのアブラハムに神さまはその都度、このように答えられました。その五十人のために、四十五人のために、四十人のために、三十人のために、二十人のために、十人のために私は滅ぼさない(18章26~32節)。アブラハムは罪の町と言われたソドムの町の救いために必死で願い求めました。アブラハムがしたこと、それは何かというと、執り成しということです。神さまのもとに人々が立ち帰るようにと執り成したのです。今を生きる私たちも、世にあって、この執り成しに生きる者とされていることをおぼえたいと思います。

(聖書から)
 お読みした聖書は創世記19章です。今日は、この章の15節から29節の箇所からお話したいと思いますが、この章の前半では、アブラハムのところを訪ねて来た客がソドムに向かったことが書かれています。1節には、この二人の客のことが「二人の御使い」(1節)となっていて、彼らが、神さまの使い、神さまに遣わされた人たちであったことが示されています。この人たちがソドムに着いた時、そこにはアブラハムの甥のロトとその家族が住んでいました。アブラハムが、ソドムの町の執り成しを神さまに必死で求めた理由がお分かりになったと思います。4~9節には、そのソドムという町にどのような人たちが住んでいたかが分かる内容が書かれています。罪に支配された人たちの様子です。そして、12節からお読みしますと、二人の客、つまり、神さまから遣わされたみ使いはロトにこう言います。
19:12 二人の客はロトに言った。
「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。19:13 実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」
19:14 ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。
 この二人の言葉からも、この人たちが神さまから遣わされた人たちであったことが分かります。罪の町であるソドムは滅ぼされることになるというのです。それを聞いたロトはすぐに自分の婿たちのところに行って、この町から逃げるようにと告げます。ところが、彼らの反応はこういうものでした。「ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った」(14節)。彼らにとっては、この町は物質的には栄えた町であり、住み心地も良かったのでしょう。目に見える豊かさ、華やかさに心を奪われ、罪に支配された人々の心を知ることがなかった。そこで彼らは、ロトの言葉をまともに受け止めなかったのです。
 15、16節をお読みします。
19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトをせきたてて言った。
「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」
19:16 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。
 ロトは自分の家族が神さまから聞いた言葉を伝えても、真に受けない。そういうことで心が揺らいだのでしょうか。16節には、この二人の客から再度、この町から逃げるように、と言われても、ためらっていた、ということです。私たちもためらってしまう、ということがあるかもしれません。福音を伝えても、受け入れてもらえない、聞いてもらえない・・・。むしろ、反対されたり、厳しい言葉を投げかけられた里すると、福音を伝える者自身の心が弱ってしまい、信仰の確信とか、喜びを見失ってしまうということがあります。
ためらうロトでしたが、そういうロトと家族に二人の客、ここにも御使いとなっていますが、16節には「主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた」とあります。ロトのためらい、弱さ、そういうこともご存じのうえで神さまはロトとその家族を憐れみ、町の外に避難させられました。残念なことにロトの言うことを冗談だとまともに受け取らなかった婿たちは行動を共にしなかったようです。そして、この時、主がこのように言われた、ということです。
19:17 彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」
 ここに「命がけで逃れよ」とあります。これはもっと直訳的に訳すと、「自分のいのちを惜しんで、逃れよ」(岩波訳)となります。自分の命を惜しむように、とあります。これはとても大事なことです。「命がけで逃れよ」、「自分のいのちを惜しんで、逃れよ」。命が大切です。生きることが大切です。これこそが聖書が一貫して私たちに語っているメッセージです。神さまが与えてくださった命、私の命、あなたの命を大事にすることです。神さまの言葉、それは命のための、生きるためのメッセージです。あなたの命を脅かすもの、貶めるものから逃れよ、罪から逃れよ。聖書はそう語るのです。
 神さまはロトに山へ逃げるように、と言われました。しかし、ロトはそれに対して、それはできない、それは無理だ、と言っています。18節からお読みします。
19:18 ロトは言った。
「主よ、できません。19:19 あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。19:20 御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。」
19:21 主は言われた。
「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。19:22 急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」
そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。
 ロトのこの願いに対して、神さまはどのようにお答えになったでしょうか?「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから」(21、22節)。ロトは近くの小さな町までで勘弁してください、と言いました。神さまは、そんなことでは駄目だ。もっと頑張って、私の言うとおりにしなさい、とロトの言ったことを退けるようなことはなさらず、ロトの願いを受けとめてくださいました。ここにロトはある小さな町までで勘弁してください、と言っていますが、それに対して神さまは、逃げるのは、その町まででよろしい、と言われました。
 ロトという人物は、叔父のアブラハム、後に信仰の父と言われるアブラハムに比べるならば、小さな人物であったと思います。しかし、そういうロトのことも神さまは顧みてくださいました。神さまの言われるとおりには、そこまでは従えません。ロトはそのことを正直に、率直に神さまに申し上げました。私たちも、私はそこまでは従えません、そこまではできません。自分ができないこと、無理だと思うことをそのまま神さまに申し上げてよいと思うのです。それは、開き直りということではありません。信じられない、従えない自分を認めることです。そして、そういう自分を神さまに差し出していくのです。
汚れた霊に取りつかれ、病んでいる息子を持つ父親が、イエスさまにこのように言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9章24節)。一見、矛盾しているような言葉ですが、この父親はイエスさまに信じられない自分、信仰の無い自分をそのまま差し出したのです。イエスさまは、その言葉を受け止めてくださり、その人の息子を癒してくださいました。従いえない、信じられない者を顧みてくださる神さま、神さまの愛の大きさ、広さを教えられます。信じられない自分、信仰の無い自分、その私を愛しておられる神さま、そのことを知るところから、信仰が生まれるのではないでしょうか。
 24節以下には、ソドムとゴモラの町の滅ぶ様子が書かれています。ここで有名な場面はロトの妻のことです。26節をお読みします。
19:26 ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。
 信仰生活、神さまに従って生きるということは、後ろを振り向かない、ということです。後ろを振り向いたら、塩の柱になるというのです。それはどういうことかというと、前に進めなくなるということです。後ろというのは、自分の過去の罪の生活であったり、反対に、過去の華々しい栄光であったり、人それぞれ違うと思いますが、一言で言うと、神さまに従うことを妨げるものと言ったらよいかと思います。そういうものは捨てていくのです、離れていくのです。そして、前に向かって進むのです。新約聖書のヘブライ人への手紙12章1、2節には、このような言葉があります。
12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

(むすび)
 今日お読みした聖書の最後の言葉をお読みします。
19:29 こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。
この言葉の中に、「神はアブラハムを御心に留め」とありました。別の訳では、「アブラハムのことを忘れず」(聖書協会共同訳)、また、「神はアブラハムを覚えておられた」(新改訳)とも訳されています。これはどういうことかと言いますと、今日の話の最初にも触れましたが、創世記18章にありましたアブラハムの執り成しのことです。神さまはアブラハムの執り成しの祈りを聴いてくださったことが示されているのです。それで甥のロトは救いの恵みにあずかったのです。神さまは私たちの祈りも、執り成しの祈りも聴いてくださる。そう信じて、私たちも祈り続けていきたいと思うのです。アブラハムは自分の甥である、家族であるロトのために祈りました。私たちも多くは自分の愛する人たち、大切な人たちのために、執り成しの祈りをしていきましょう。神さまは必ず、祈りを聴いてくださる。そのことを信じて、祈り、救いの言葉を伝えていきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 私たちもロトのように、すぐにためらってしまい、自分にはできません、と言ってしまうような者ですが、神さまは、そういうロトのことも顧みてくださいました。私たちは、自分の愛や正しさではなく、神さまの愛に守られて、支えられている者です。そのことをいつも思い、主に感謝して歩む者でありますように。
 神さまは、アブラハムの執り成しを忘れずに聴いておられ、応えてくださいました。私たちも自分の祈ること一つ一つを、その小さく思える、愚かに思えるその祈りをも、神さまが聴いておられることを信じて、あきらめずに、祈り続ける者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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