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「命の恵みを共に受け継ぐ者」ペトロの手紙一3章1~7節 2026年10月18日 

命の恵みを共に受け継ぐ者 ペトロの手紙Ⅰ 3章1~7節 2026/10/18 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 今日は、ペトロの手紙一3章1~7節をお読みしました。新共同訳聖書では、この箇所について、「妻と夫」という小見出しが付けられています。前回、先月になりますが、ペトロの手紙一からお話しした時は、2章18~25節をお読みしました。その箇所には「召し使いたちへの勧め」という小見出しが付けられていました。前回と今回の聖書個所は、召し使いたちへの勧め、妻たちへの勧め、夫たちへの勧めが書かれていますが、これはこの書が書かれた当時の家庭訓、家訓のような内容です。昔は、「我が家の家訓は・・・」と言って、その家庭に伝わる代々の教えというものを大事にする人がいましたが、今では、家訓という言葉もさっぱり聞かなくなりました。
 私たちがこのような聖書の言葉を読む時、時代や地域、文化の違いなどから、書かれていることを、そのまま理解するのは難しいと思えることがありますが、時代や地域、文化を超えて、その根底に流れている神さまからのメッセージから、聞いていきたいと思います。

(聖書から)
 まず、1、2節をお読みします。
3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。3:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
 「同じように」という言葉から始まります。先ほどお話しした召し使いたちへの勧めの続きであることが分かります。「同じように」というのは、召し使いたちへの勧めに書かれていたように、妻たちも、また夫たちも、「従う者」であるという意味です。この「従う者」という言葉は、口語訳聖書では、「仕える者」と訳されています。聖書を読んでいきますと、仕えるということがとても大事なことであると語られています。例えば、イエスさまは、このようなことを言われています(マタイ20章28節)。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。
 イエスさまは、ご自分が神さまのみ子として、この世においでになった目的を語られました。それは、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために」とありますように、イエスさまは、仕えるために来た、と言われました。イエスさまを救い主、私の主と信じる人は、イエスさまが仕えるためにおいでになったことに倣って、仕える者として歩むのです。
 妻たちへの勧めの言葉に戻ります。「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」とありました。「従いなさい」、「仕えなさい」。なぜ、妻は夫に従うように、というでしょうか。この後には、このような言葉が続きます。「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」。ここから分かることは、この勧めは、キリストを信じる妻とキリストを信じていない夫という夫婦に向けて語られていた勧めということです。そして、なぜ、従うのか、仕えるのか、というと、キリストを信じない夫が信仰に導かれるため、ということです。
 ところで、従う、という言葉を聞きますと、何でも相手の言うことを聞くように、言いなりになるように、ということのように思うかもしれません。しかし、ここで言われていることはそうではありません。相手を愛するということです。相手を大切にする、大事にする、ということです。神さまを信じる者は、自分が神さまから愛されている、神さまから大切にされている、大事にされていることを知っていますから、それに倣っていくのです。
「妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるため」とありました。「無言の行い」とありました。「無言の行い」というのは、とても説得力のあるものです。どんなに言葉で立派なことを言っても、その生き方、生活が言葉とかけ離れているならば、何の説得力もありません。「無言の行い」、それは、その人の生き方、生活ということです。
 次の2節には、このようなことが書かれていました。「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」。私たちの神さまを畏れる生活、生き方を見てもらうのです。神さまを畏れる生活、生き方とは、どういうものでしょうか。聖書から示される神さまの言葉を自分の生活、生き方で表していくのです。私たちが聖書を読み、学ぶのも、同じです。学んだことを自分の生活、生き方で表していくのです。
 3、4節をお読みします。
3:3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。3:4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
 「装い」ということが言われていました。装いを整える、あるいは身なりを整えると言ったらいいでしょうか。ここには、装いといっても、外面的な装いではなく、内面的な装いのことが教えられています。4節をもう一度読んでみますと、「むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」とあります。
 「柔和でしとやかな気立て」というと、今から二千年も前の時代ということもありますが、大変古風な感じがします。これを別の訳で見てみますと、「柔和で穏やかな霊」(聖書協会共同訳)と訳されていました。「気立て」という言葉が、「霊」と訳されていますが、これは原語をそのまま訳したものです。カトリックのフランシスコ会訳では、「気立て」、「霊」という言葉が「心」という言葉で訳されています。柔和でしとやかな心、柔和で穏やかな心、この方がしっくりくるかもしれません。
 「柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄」。「内面的な人柄」とあるように、人柄というのは、その人の内面から、内側から現れてくるものです。ところで、この「人柄」という言葉を国語辞典で見てみますと、「人の品格、人の性質」(『岩波国語辞典 第五版』)とありました。聖書の中にも、「品格」という言葉が出てきます。ローマの信徒への手紙5章3、4節です。
5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
 これは私たちが使用している新共同訳ですが、「練達」となっているところが、聖書協会共同訳では、「品格」と訳されています。
5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、5:4 忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。(聖書協会共同訳)
 苦難は忍耐を生み、忍耐は品格を生み、そして、品格は希望を生むというのです。苦難、苦しみというのは、できることなら、遭いたくない、経験したくないことですが、そのことを通して、私たちの品格が培われるというのです。人柄、品格というものは、苦しみを通して、培われるというのです。なぜ、そのようなことが言えるのでしょうか。私たちが苦難に遭う時、私たちは苦難の中にあっても、一人ではないのです。私たちは、苦難の中にある時も、私たちと共におられる方がいることを知っています。聖書の中に「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ13章5節)とあります。私たちは、その神さまに自分を委ねて生きていくことができるのです。そして、その歩みの中で、私たちの内面に起こってくること、それが、苦難が忍耐を、忍耐が品格を、品格が希望を生むということです。苦難を通して、私たちは神さまこそが本当の希望であることを知るのです。

(むすび)
 ここまで妻たちへの勧めを読んできましたが、今日お読みした最後の言葉が夫たちへの勧め、キリストを信じる夫たちへの勧めとなります。7節をお読みします。
3:7 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
 「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて」とあります。「自分よりも弱いもの」というところに、引っ掛かりをおぼえる方があるかもしれませんが、ここで「弱い」というのは、当時の男性中心社会、父性社会においては、圧倒的に、女性の立場は弱いものでしたから、「弱い」ということが言えるのです。その弱い立場に置かれていた女性を、妻を大事にすることが言われています。
 「わきまえて」とありました。口語訳聖書では、「わきまえて」が、「知識に従って」となっています。「知識」とは何かというと、神さまからいただく知識のことです。神さまからいただく知識、あるいは知恵と言ってもいいでしょう。それは、神さまの言葉から学ぶのです。妻について、聖書から、神さまの言葉から学ぶこと、それは、「命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」ということです。妻とは、「命の恵みを共に受け継ぐ者」なのです。命は神さまから与えられたものです。それは自分だけではありません。自分の妻も、自分の子供も、自分の家族も、友人も・・・。私たちが出会う一人一人が「命の恵みを共に受け継ぐ者」、お互いが神さまから大切な命を賜った者。そのことをおぼえて、お互いに尊敬し合うのです。何かができるから、能力があるから、優れたものを持っているから、そういう理由で尊敬するのではありません。その人が神さまに造られ、愛されている者であるという理由から尊敬するのです。お互いが神さまのもの、それゆえにお互いが神さまにあって尊い存在なのです。
 この後には、「そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」という言葉が続いています。祈りが妨げられる。祈れなくなること、教会の兄弟姉妹と、家族と共に祈ることができなくなること・・・。皆さんはそういう経験はあるでしょうか?いったい何が私たちの祈りを妨げるのでしょうか?それは自分が神さまに対して心を閉じてしまっている時です。神さまの恵みを忘れ、救いの喜びを忘れている時です。人を尊ぶこと、尊敬することができなくなっている時です。そのようなことがないように、私たちは、お互いが「命の恵みを共に受け継ぐ者」、神さまの命に与かっている者であることをいつもおぼえていたいと思うのです。お互いのために祈っていきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 お読みした聖書にありましたように、妻に対して、夫に対して、具体的な信仰の勧めが語られていました。私たちは、日々の生活の中で、主に従う者です。
 「命の恵みを共に受け継ぐ者」。それは家族のことであり、友のことであり、私たちが出会う一人一人のことです。神さまから与えられた命を生きる私たちは、互いのために祈り合う、また共に祈る者でありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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