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「笑いを与えてくださる神」創世記21章1~21節 2026年10月25日 

笑いを与えてくださる神 創世記21章1~21節 2026/10/25 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 お読みしました聖書の箇所は創世記21章です。この章の1~21節をお読みしましたが、前半の1~8節には喜びの内容、人生の光の部分が書かれています。一方、9節以下は人生の陰の部分と言ったらいいでしょうか。対照的な内容の記事が書かれているのが今日の聖書の言葉です。

(聖書から)
 まず、1、2節をお読みします。
21:1 主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、21:2 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。
 礼拝では、月に一度、創世記からお話ししてきました。これまでの箇所を振り返りますと、神さまはアブラハムとサラの夫婦に子供を与えることを約束されました。けれども、この夫婦は神さまの約束の言葉を聞いても、それを信じることができませんでした。なぜでしょうか?今日の説教題は「笑いを与えてくださる神」としましたが、この創世記17、18章をご覧いただきますと、そこにはアブラハムとサラが笑った様子が記されています。
 アブラハムの「笑い」について書かれているところをお読みします(17章15~17節)。
17:15 神はアブラハムに言われた。
「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」
17:17 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」
次にアブラハムの妻サラの笑いについて書かれている箇所をお読みします(18章9~12節)。
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。
「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、18:10 彼らの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。18:11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
 いかがでしょうか。アブラハムの笑い、そして、サラの笑い。それは喜びの笑い、嬉しくて笑っているわけではなかったことが分かります。そういう笑いなら、人の前で堂々と笑うでしょう。しかし、二人ともひそかに笑ったというのです。その笑いというのは、嘲笑、あざ笑うというものです。それも誰に向かってあざ笑ったのかというと、神さまに対してです。私たちにはもう子供は無理です。神さまは何ておかしなことを言うのでしょう。アブラハムもサラも神さまをあざ笑っているのです。
 あざ笑う、という言葉を国語辞典で調べてみますと、「相手を馬鹿にして笑う」(『岩波国語辞典第五版』)とありました。神さま、あなたのおっしゃるようなことはありえません、と神さまを馬鹿にして笑ったのでしょうか?
 ところが今日の聖書の言葉を読んでみますと、神さまは約束された通りにアブラハムの妻サラを顧みて、アブラハムとの間に男の子を与えられました。ここには「サラを顧み」(1節)とありますが、別の訳では「恵みを与えられ」(フランシスコ会訳)となっていて、「訪れる」という言葉で訳すことができる言葉だそうです。つまり、サラに神さまの恵みが訪れた、というのです。また「約束されたとおり」、「語られたとおり」とあり、2節には、「彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった」とありました。神さまの約束は必ず実現する。神さまはご自分が言われた通りのことをなされる。そのことがここに示されています。
 私たちもアブラハムやサラと同じように、神さまが言われることについて、本当なのだろうか?実現するのだろうか?と神さまを疑い、あざ笑うようなことがあるかもしれません。しかし、神さまの言われることは真実であり、実現する。そのことを信じていきたいと思うのです。
さて、6節から、イサクを与えられたサラの言葉をお読みします(6、7節)。
21:6 サラは言った。
「神はわたしに笑いをお与えになった。
聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」
21:7 サラはまた言った。
「誰がアブラハムに言いえたでしょう/サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました/年老いた夫のために。」
 サラは、神さまの約束が信じられないで笑ってしまった、あざ笑ってしまったのですが、ここでは「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう」と言っています。新共同訳聖書では、「笑い(イサク)」となっていて、イサクという名前が「笑い」という言葉から来ていることが示されています。ここで言われている笑いは、嘲笑、あざ笑う、という笑いとは違います。心の底からの喜びの笑いです。笑いの中身、笑いの質が違います。
 私は今まで、自分はイエスさまと出会った。自分は神さまに愛されている、神さまが自分と一緒に人生を歩んでくださっている。そのことを信じて、笑えるようになった、喜べるようになった。そういう方を何人も見てきました。その姿、その様子を見て、神さまが人を変える。神さまが本当の喜びを与えてくださる。そのことを確信させられました。そして、ますますイエスさまの福音を、イエスさまを伝えていきたいと思うようになりました。
 ここまで、喜びの出来事が書かれている箇所を読みましたが、喜びのただ中にあるアブラハムとサラに陰の部分があることがこの後の9節以下の聖書箇所から分かります。9~11節をお読みします。
21:9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、21:10 アブラハムに訴えた。
「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」
21:11 このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。
 アブラハムとサラには子供がありませんでした。もう夫婦とも年を取っていて、子供を産むには無理だろう。そこで妻のサラがエジプトの女奴隷ハガルと夫アブラハムとの間に子供を作るように願います(16章)。そこで生まれたのがイシュマエルという男の子でした。しかし、この話は妻サラから出たことなのに、イシュマエルが生まれると、サラはハガルをいじめるようになります。そして、先ほどお読みしましたように、サラにも子供が生まれました。イサクと名付けられた男の子でしたが、その子をハガルから生まれたイシュマエルがからかっているのを見て、サラは夫アブラハムにハガルとイシュマエルを追い出すように願います。何と勝手な話だろうと思いますが、このことでアブラハムは大変苦しんだ、ということです。アブラハムにとっては、イサクもイシュマエルも自分の子供でした。
 元々は妻のサラから出た話であり、アブラハムもそれに対して、何も抵抗もなく、受け入れたことによって出たこと、「身から出たさび」というような話なのですが、このことで女奴隷であったハガルとその子イシュマエルは追い出されるようなことになります。ハガルとイシュマエルの立場からすると、何と不条理なことだろうか、と思うようなことです。これについて、神さまの言葉があります。
21:12 神はアブラハムに言われた。
「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。21:13 しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
 ここで神さまはなぜ、サラの言うことに聞き従うように、などとおっしゃったのだろうか?と疑問を持つかもしれません。確かに神様の約束はアブラハムとサラとの間に子供を与えるということでしたし、それは、その子供であるイサクが後を継ぐことを示されたわけでしたから、サラがイサクこそが跡継ぎであると主張したことは間違いではありません。しかし、だからと言って、サラにも、アブラハムにも、この家庭問題、跡継ぎの問題の責任がないわけではありません。それなのに、なぜ、神さまはこのようなことを言われたのでしょうか? 13節には神さまのこのような言葉があることに注目したいと思います。「しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。イシュマエルも一つの国民の父とする。神さまはこの親子にも憐れみを向けられたことが分かります。
 ハガルとイシュマエルがアブラハムのもとから去って行く場面が14節以下にあります。
21:14 アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。21:15 革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、21:16 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。21:17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。21:18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
 ハガルとイシュマエルの逃亡の場面ですが、持たされたパンと水も尽き果ててしまう、という状況に陥りました。この親子は声をあげて泣きます。すると、「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」」ということで神さまの助けがあったことが記されています。イシュマエル、ハガルから生まれた子供の名前は「神は聞いた」(16章11節参照)という意味です。その名前の通り、神さまはこの親子の嘆き、苦しみを聞いておられ、助けられたのです。

(むすび)
 アブラハムとサラの間に神さまは約束通り、イサクという男の子を与えられました。神さまは彼らに本当の笑いを、喜びをお与えになりました。しかし、その一方でこの夫婦の陰の部分ということについてもすぐその後に書かれていました。光があり、陰がある。それは私たちも同じです。私たちも、自分の人生を顧みると、光と陰、両方を合わせ持っているのではないでしょうか。
アブラハムとサラ、この夫婦の罪をご存じであり、弱さをご存じである神さまがそれでも彼らを愛し、共に歩んでくださいました。私たちも同じです。私たちも一人の罪人に過ぎない者です。そういう自分が神さまに赦され、愛され、生かされている。このアブラハムとサラの物語を通して、私たちは、自分にも注がれている神さまの愛と赦しをおぼえて歩む者でありたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 神さまの約束の言葉を信じられず、神さまの言葉を疑い、あざ笑ったアブラハムとサラが、神さまの言葉が実現した時、そこで彼らの疑い、不信の心が砕かれ、神さまを喜ぶ者とされました。
 約束の子であるイサクが与えられたことは喜びでしたが、彼らがハガルとイシュマエルに行った罪についても、この聖書の個所には書かれていました。私たちは、聖書の言葉を通して、人間の光と陰を知らされます。しかし、私たちは自分では、忘れてしまいたい、向き合いたくないと思うそこにも主はおられ、そこで主は私たちにご自分の愛と赦しを示してくださっていることを知ります。
 私たちは主に対する感謝と喜び、そして、悔い改めに生きる者でありますように。どこまでも愛され、赦されている自分であることをいつもおぼえて歩む者であるように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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