「愛の心を知られる方」マタイによる福音書26章1~13節 2026年11月8日
(はじめに)
お読みした聖書は、マタイによる福音書26章1節からでした。こういう言葉が書かれていました。
26:1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
「これらの言葉をすべて語り終えると」。これはどういうことかと言いますと、イエスさまは、ご自分が語るべき言葉をすべて語り終えた、ということです。神さまのみ子、救い主として、この世においでになられたイエスさまは、人々に語り続けてきました。何を語り続けてきたかというと、福音を語り続けてきたのです。福音、良い知らせです。イエスさまご自身が福音です。救い主が私たちのためにおいでになったのです。 まもなく12月、イエス・キリストのお生まれになったことをお祝いするクリスマスを迎えます。クリスマスに読まれる聖書の言葉の一つが、天使が羊飼いに語った言葉です。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2章10~12節)。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」。クリスマスには、教会でクリスマスの意味が語られるメッセージに耳を傾けていきたいと思います。
(聖書から)
今日の聖書の言葉に戻ります。「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」。イエスさまは語るべき言葉をすべて語られました。後はどうするのかというと、神さまの救いのわざをなさるのです。それが、十字架です。私たちを罪から救うためになさった神さまの愛のわざ、それが十字架です。
マタイによる福音書26章6節からは、イエスさまがベタニアという町の重い皮膚病の人シモンの家におられた時の話が書かれています。重い皮膚病、古い訳では、らい病と訳されていました。ハンセン氏病のことです。その病に苦しむ人は、病による苦しみと、人々からの差別という二重の苦しみに遭いました。らい病と訳されていた言葉が、重い皮膚病、最新の訳である聖書協会共同訳では、規定の病と訳されるようになりましたが、それは聖書の研究者たちによって、らい病、ハンセン氏病と言われていた病ではなかったことが分かったからでした。しかし、だからといって、何の苦しみもない病だったということではありません。イエスさまが重い皮膚病の人シモンの家を訪ねられた。それは、イエスさまは、病に苦しむ人、差別されている人に近づかれ、共に歩まれたことが、この聖書の記事から分かります。
6、7節をお読みします。
26:6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
一人の女性のことが書いてありました。この人は、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って、イエスさまに近寄り、イエスさまの頭に香油を注ぎかけた、ということです。ここに、極めて高価な香油とありましたが、別の聖書の個所を見ますと、その価値は三百デナリオン以上(マルコ14章5節参照)だったそうです。一デナリオンが当時の人々の一日の労働賃金だったそうですから、その三百日分、一年分と考えたらよいでしょうか。確かに高価な香油でした。それを一気にイエスさまの頭に注ぎかけてしまった。それを見ていたイエスさまの弟子たちは驚いたようです。弟子たちの様子がこのように書かれています。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
弟子たちは、この女性の行為を無駄遣いと言っています。それだけの価値のある香油なら、高く売って、それを売ったお金で貧しい人々に施すことができたのに、と言っています。これは、正論と言えるでしょう。貧しい人々に施しをし、助けること。イエスさまの弟子たちは、日々、イエスさまと寝食を共にしていましたから、イエスさまの言葉、行ない、その一挙手一投足を見ていました。イエスさまが貧しい人たちの友となられたお方であったことを彼らは見ていた、知っていたはずです。
さて、イエスさまは、この弟子たちの声にどう答えたでしょうか。10節からお読みします。
26:10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
イエスさまの言葉の途中までをお読みしました。イエスさまは、この女性の行為、イエスさまの頭に香油を注いだことに対して、こう言われました。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」。イエスさまに対して、良いことをしてくれた、と言われました。それがどういう意味か、ここまでの言葉では分かりませんが、その後には、弟子たちに対して、このように答えています。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。あなたがたが言っていることは間違いではない。あなたがたは貧しい人々といつも一緒にいるから、その関わりは大切にしなさい。あなたがたが彼らを助け、支えてやりなさい。そう言っているようです。しかし、その後に不思議なことをイエスさまは言われました。「わたしはいつも一緒にいるわけではない」。イエスさまは、いつも一緒にいるわけではない、と言われたのです。ここで、いつも一緒にいるわけではない、と言われたのは、すべてのことを語り終えたイエスさまがこれからなされることを暗示しています。つまり、イエスさまはまもなく十字架におかかりになるということです。イエスさまは十字架にかかって死なれ、弟子たちと離れることになるのです。
そのことを語られたイエスさまは、続いて、このように言われました。
26:12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
この人は、「わたしに良いことをしてくれた」。その「良いこと」というのが、「わたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備」ということでした。先日、私たちの教会の敬愛する一人の教会員の方が、亡くなられました。教会では、亡くなられることを召天されると言います。天に召される。天というのは、神さまのおられるところという意味ですから、神さまのみもとに召されるということです。葬儀では、多くの花が飾られます。それは、亡くなられた方を弔う時、綺麗に式場を飾るためということもありますが、人は亡くなると体が腐敗し臭いがします。そのために花の香りでその臭いを覆ってしまうのです。イエスさまはまもなく十字架にかかり、死なれる。すると、その体に香油が注がれるのです。それは香油の香りで臭いを覆うためです。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」。それが、この人が私に香油を注いでくれた意味なのだ。イエスさまはそう言われたのです。
おそらく、当の本人は、それを聞いて、きょとんとしていたのではないかと思います。この女性は、イエスさまがまもなく十字架にかかり、死なれるなんて、考えてもみなかったと思うのです。では、彼女は何の意味もなく、香油を注いだのでしょうか?いいえ、彼女の持ってきた高価な香油、それは、この女性にとっては大変貴重な宝物のようなものだったと思います。それをなぜ、一気にイエスさまの頭に注いでしまったのでしょうか?それは、この女性のイエスさまに対する心です。彼女はイエスさまのことを知っていました。この方が愛の方であることを知っていました。この方が語られた言葉を聞いて、彼女は、自分が神さまに愛されていることを知ったのです。その愛に彼女の心は動かされて、神さまの愛に応えたくて、感謝したくて、イエスさまに香油を注いだのです、イエスさまに自分の最も大事なものをささげたのです。
(むすび)
今日お読みした聖書の最後の言葉はこういう言葉です。
26:13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
聖書は、神さまは愛であると語ります(一ヨハネ4章8節)。それは、神さまはあなたを、私を愛しているということです。このことを知った人、それが、今日の聖書に出てきた一人の女性です。自分が神さまから愛されていることを知ったら、自分も愛そうとするのです。神さまを愛そうとする、隣人を愛そうとするのです。イエスさまは、「この人のしたことも記念として語り伝えられる」と言われました。あなたの愛を私はいつまでもおぼえているということです。神さまはあなたを愛している。神さまはあなたの愛をおぼえている。
私たちは、今、礼拝に集っています。ある牧師先生の言葉です。神さまを愛する。それは、どういうことか。立派な生き方をする、正しい生き方をする。いいえ、神さまを礼拝する。それが、神さまを愛することだ、と言われました。そうであるならば、この礼拝においでになっている皆さまも神さまを愛する者へと導かれているのではないでしょうか。神さまに愛されていることを知り、神さまを愛する者として歩む。隣人を愛する者として歩む。イエスさまの十字架は私たちをそのような者へと導くのです。お祈りいたしましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
一人の女性が、神さまの愛を知り、愛された喜び、感謝から、イエスさまに香油を注ぎました。イエスさまは、そのことを私の葬りの準備をしてくれた、と言われました。この人は、この後、主が十字架におかかりになった時には、私のために主が十字架にかかってくださった。私を罪と死から救ってくださった。十字架の意味を知り、心から感謝したことでしょう。私たちも聖書が示す主の十字架の愛をこの私のための救いのわざであると信じるように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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