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「最も小さい者の一人にしたこと」マタイによる福音書25章31~46節 2026年11月1日 

最も小さい者の一人にしたこと マタイによる福音書25章31~46節 2026/11/ 1 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
マタイによる福音書25章31節からお読みしました。マタイによる福音書25章には、十人のおとめのたとえ(1~13節)、タラントンのたとえ(14~30節)というふうに、イエスさまのたとえ話が語られていました。そのたとえ話というのは、神さまを信じる人たちに対しての警告、戒めと言える内容でした。そして、31節から語られているイエスさまの言葉です。お読みした聖書の40節には、こういう言葉がありました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。
私が子供の頃の話ですが、教会学校に出席すると、毎週、小さなカードをいただきました。そのカードには、聖書の言葉が書いてあり、挿絵が描いてありました。聖句カードというものです。そのカードを貼り付けることのできるカード帳もいただきましたので、私は出席するたび、そのカードをカード帳に糊で貼り付けました。時々、そのカード帳を開き、眺めていました。そのカードの中で、何となく印象に残っていたのがこの言葉でした。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。「最も小さい者」とは何のことなのか、子供の時には、さっぱり分からなかったのですが、分からないまま、「最も小さい者」という言葉がずっと私の心に記憶されていました。
聖書の言葉というのは、正直なところ、読んだだけでは分からない言葉だらけです。けれども、普段、聞かないような言葉があると、おぼえているものです。ある牧師先生が、聖書の言葉についてこうおっしゃいました。聖書の言葉を咀嚼してください。咀嚼するというのは、食べ物を何度も何度も噛んで食べるということです。咀嚼することで、食べ物をよく味わうことができ、消化にもよいのです。それと同じように、聖書の言葉を咀嚼する。何度も何度も読んでみることです。
クリスマスの時期に読まれる聖書の言葉の一つに、羊飼いの記事がルカによる福音書にあります。イエスさまがお生まれになったことを天使から聞いた羊飼いたちがベツレヘムのイエスさまのもとに行くのです。そして、彼らは天使から告げ知らされたことを話します。それを聞いた人たちは不思議に思いました。しかし、イエスさまの母マリアについて、このように書かれていました。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2章19節)。羊飼いたちが伝えた言葉をマリアは理解することができませんでした。けれども、そのすべてを心に納めて、思い巡らしていた、というのです。私たちもマリアと同じです。今は聖書の言葉を分からなくても、心に納め、思い巡らしてみるのです。繰り返し、繰り返し、み言葉を咀嚼してみるのです。神さま、あなたは私にこんなことを語っておられたのですね、といつの日か、分かる日が来る。そう信じていきたいと思うのです。

(聖書から)
今日の聖書の言葉は、こういう言葉から始まっています。
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
これは何を意味しているのでしょうか?終わりの日、裁きの日のことでしょうか?その日には、私たちは羊と山羊のように分けられる。このことについて、私たちは、羊飼いが羊と山羊を分けるように、天国と地獄に分けられる。そういう理解をする人がいます。確かに、この後の46節には、「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」とあります。それでは、ここには永遠の命にあずかる者と永遠の罰を受ける者の話が書かれているのでしょうか?そうであるならば、とても恐ろしい言葉です。
しかし、ここで一つ考えたいことがあります。これはイエスさまのたとえ話です。イエスさまは、私たちが神さまに従って歩んでいくことができるように、という目的で語られたのではないでしょうか。最初にお話ししましたが、これらのたとえ話は、警告、戒めとして語られた言葉です。私たちはこのような話を聞く時、自分が天国に行けるように、地獄に落ちることがないように気をつけなければ・・・。そのようにして聞くのではないと思うのです。イエスさまは、私たちに、神さまを信じるとは、神さまに従うとはこういうことなのだ、と教えてくださっているのではないでしょうか。イエスさまは、私たちに、あなたがたは私の本当の弟子であるように、と願って語られたのではないでしょうか(ヨハネ8章31節)。
このたとえ話の前半には、このようなことが語られていました。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
王は右側にいる人たちにこう呼びかけました。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」。「天地創造の時からお前たちのために用意されている国」とは、天の国のことでしょう。皆さんは、この話を聞いて、私は天の国を受け継ぐのにふさわしい者。そのように確信されたでしょうか?おそらく、この話を聞いて、そのように確信された方はいないと思います。この話に出てくる「正しい人たち」は王に対して、こう言っています。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」。ここで言っていることは、私は天の国を受け継ぐようなことはしていません、ということです。
しかし、イエスさまは、それに対する王の答えとして、このように語られました。このたとえ話に出てくる王とは、神さまのことでしょう。神さまはこのように言われたのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした」こと。それは、自分でも忘れているようなこと、誰にも知られず、評価されることもないこと。そういう自分では小さなことと思える、些細なことと思えることです。しかし、神さまは、そういう私たちの小さなこと、些細なことと思える一つ一つを知られ、それを喜んでおられる。そして、こう言われるのです。それは、「わたしにしてくれたこと」なのだ。
家族の看病、看護に励んでおられる方がいます。そういう方に「よくご家族を支えておられますね」と言いますと、たいていこのように言われます。「いいえ、家族のことですから当然のことをしているだけです。特別なことでも何でもありません」。けれども、私たちにとっては、当然のこと、小さなことと思えるそのことも、イエスさまの目から見ると、「わたしにしてくれたこと」であり、神さまの喜ばれることではないでしょうか。
41節からお読みします。
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
ここでは、王が「左側にいる人たち」に語っています。それは厳しい言葉です。すると、彼らは王に反論します。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」。
この人たちは、王が自分たちに言うことに対して、心外だ、納得できない、と言っているようです。自分たちは、善いこと、正しいことを数多く行ってきた。それなのに、なぜ、あなたはそんなことを言うのか?と言っているようです。彼らは、自分たちが行ってきた善いこと、正しいことの一つ一つをおぼえていたのです。自分たちは、これだけの善行を、正しい行いをしてきた。それに見合った評価を受けてもいいはずだ、称賛されるべきだ・・・。そんなことを思っていたかもしれません。
イエスさまが山上の説教をされた時、施しについて語られた言葉があります(6章1、3、4節)。
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
人に見てもらうため、人に誇るために施しをするのではない、と言われています。一方、「隠れたことを見ておられる父」とあります。これは神さまのことです。私たちは人からの報いを求めなくてもよいのです。私たちは人から称賛されなくてもよいのです。なぜなら、「隠れたことを見ておられる父」、私たちのすべてをご存じの神さまが見ておられるからです。この方が私たちに報いを与えてくださる。天の国は、救いは私たちが自分の力、自分の義、自分の善い行いによって獲得できるというものではありません。それは神さまが与えてくださるものです。神さまが私たちを天の国へと、救いへと導いてくださるのです。大事なことは、私たちが、神さま、ありがとうございます、と天の国を、救いを受けていくことです。この受けるということが信仰、信仰の始まりです。

(むすび)
私たちが神さまを信じて生きること、神さまに従って生きることは、世においては、何の報いもないかもしれません。人からの称賛を受けることもないかもしれません。しかし、主は言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」。「わたしの兄弟」、「最も小さい者の一人」とは誰のことでしょうか?それは私たちが出会う一人一人のことです。そして、私たち自身のことです。「わたしの兄弟」、「最も小さい者の一人」。私も、あの人も、神さまに愛されている一人一人。そのことをおぼえて、私たちは神さまから受けた愛を互いに分かち合っていくのです。だから、主は、私たちに、互いに愛し合いなさい、と言われるのです。それが、神さまから、「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(34節)と言われた私たち、天の国に生きる者とされた、救われた者とされた私たちの生き方です。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主は、私たちが神さまを信じて生きるために、神さまに従って生きるために、大切な言葉を語ってくださいました。
主は、私たちのことを「わたしの兄弟」、「最も小さい者の一人」と言われました。主ご自身が、神の子であるのに、この世に人として来られ、「最も小さい者の一人」として、歩まれました。それは、私たちを「わたしの兄弟」と呼び、私たちと共に歩まれるためでした。
信仰とは、自分が正しく、立派に生きることではありません。いいえ、私たちはどんなに頑張っても、正しく、立派に生きることはできない者です。そういう私たちが、ただ、神さまの憐れみによって、天の国へと、救いへと招かれたことを感謝します。その恵みを受けて、日々新たに歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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