2020年5月17日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「キリストに向かって成長する」
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聖書―エフェソの信徒への手紙4章1~16節
(はじめに)
私たちの教会は3月29日から、教会の会堂で一緒に集まって行なう礼拝、また活動を休止しています。新型肺炎感染拡大の対策ということですが、それ以来、私たちはそれぞれの家庭で礼拝を行なうようにしています。会堂に集まり、顔を合わせることができないのは残念なことですが、聖書に書かれている初代教会、最初のキリスト教会のことを考えますと、今でいう家庭集会から始まったと言われています。キリストを信じる人たちが自分の家庭を礼拝の場として、礼拝が行なわれていました。まもなくペンテコステ、聖霊降臨日(今年は5月31日)を迎えますが、家庭の礼拝を持ちながら、最初の教会、教会の始まりについて考えてみるのも有意義なことだと思います。
(聖書から)
お読みしました聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙4章1~16節です。新共同訳聖書ではこの箇所について、「キリストの体は一つ」という小見出しを付けています。教会はキリストの体であると言われます(1章23節)。この箇所から教会について聴いていきたいと思います。
使徒パウロは教会の人々に語りかけます。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」(1節)。パウロは自分のことを「主に結ばれて囚人となっているわたし」と言っています。エフェソの信徒への手紙はパウロの獄中書簡の一つ、パウロがローマで獄中にあって書いたものと言われていますので、文字通り、囚人であったわけですが、「主に結ばれて囚人となっている」とありますように、パウロがここで言いたかったことは、私はイエス・キリストに捕らえられている者ということでした。
私はイエス・キリストに捕らえられている者。私たちはどうでしょうか?イエス・キリストを主と信じる者、それはイエス・キリストに捕らえられている者なのです。さらにパウロはこう言っています。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」。イエスを主と信じる私たちは神さまから招かれた者ということです。神さまから招かれた私たちはそれにふさわしく歩むように、と言われています。
招きにふさわしく歩むように。そのことをパウロは具体的に四つのことで語っています。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し」(2節)。このパウロの言葉を聞きますと、言われていることは難しいことではありませんが、このように生きることは難しいと思うのではないでしょうか?こんなことは無理だ。私にはできない。だから、私はクリスチャンとしてふさわしい者ではない。そういうことを思うかもしれません。
けれども、ここで言われていることは、今、あなたがそういう人であるかないか、できるかどうか、ということではありません。さらに3節も読んでみますと、「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」とあります。神さまに招かれた者にふさわしく歩むとは、一致、一つになって歩むということです。それはキリストにあって共に生きるということです。共に生きるというのは、難しいことです。みんなが同じ考え、思いではありませんから。できることなら、自分の思いのままに、好きなように生きていきたい。その方が楽だし・・・。そのように思うこともあるでしょう。しかし、4、5節にも「一つ」という言葉が繰り返されています。一致しなさい、一つになりなさい、ということが強調されています。
一方で、みんなそれぞれ違うということも言われています。7節をお読みします。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」。神さまは私たち一人一人に違った、異なった賜物を与えてくださった、ということです。「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)という言葉はご存じだと思います。聖書も同じことを言っているのです。私たち一人一人は違った、異なった存在であり、違った、異なった賜物が与えられているのです。
そういう私たちが一致するように、つまり、共に歩むように、というのです。そのために必要なことが2節に書かれていたことなのです。高ぶらず、柔和で、寛容の心を持ち、愛を持って互いに忍耐する。これは立派な人として生きるように、道徳的な人として生きるように、ということではないのです。私たちが共に生きるためには、これらのことが必要なのです。
共に生きる。それは例えてみると、このようなものであると思います。私たちは、最初はゴツゴツとした岩のような者です。それが互いにぶつかり合っていくことによって、自分の中の余分なものが削り取られたり、砕かれたりしながら、組み合わされていくのです。共に歩んでいく中で、自分の本当の姿が知らされ、必要なものと不必要なものが知らされ、今まで、人を愛せないでいた、受け入れられないでいた、自分のことだけしか考えられなかった小さな、未熟な自分が人を愛する者へと、人を受け入れる者へと成長していく、変えられていくのです。そのためには「努めなさい」(3節)とありますように、自分自身が努力することは必要ですが、「霊による一致」(3節)とありますように、聖霊、神さまの霊によって、神さまの力によって、私たちは一致させられていく、共に生きる者とされていくのです。
イエス・キリストについて、今日の箇所には「低い所、地上に降りておられた」(9節)、「降りて来られた方」(10節)とあります。イエスさまは真の神さまです。その方が地上に、すなわち、私たちのところに降りて来られたのです。イエスさまは私たちの罪深さ、弱さもすべてご存じです。そのうえで私たちを変わることなく、愛し、私たちが共に生きる、互いに愛し合い、赦し合い、生きることができるように賜物を与えてくださった、というのです。賜物というと、自分には何か特別な賜物があっただろうか?と考えるかもしれませんが、賜物というのは私たちが持っているすべてのもののことです。すべては神さまが与えてくださったものなのです。だから、その持っているものを与えてくださった神さまのみ心に従って、用いていくのです。
11節からお読みします。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(11~13節)。
神さまはある人を使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師とされた、とあります。これは教会のリーダー、指導者たち、働き人のことです。これらの人たちのことを口語訳聖書では「~お立てになった」と訳されています。最新の聖書協会共同訳では「~お与えになりました」と訳されています。もちろん、神さまがその人たちをお立てになったわけですが、お与えになった、とありますように、神さまは教会に、教会に連なる私たちにその人たちをお与えになった、ということが言われているのです。
私たちはお互いのことをそのように考えてみたらどうでしょうか。この人は神さまが教会に、私たちに与えてくださった人。そう思ってみると、今まで以上に、お互いを尊重し合うことができるのではないでしょうか。私たちはお互いの関係が良くないときには、相手のことを、私はこの人を認めない。そういう考えになってしまうのではないでしょうか。けれども、私は認めなくても、神さまは認めておられる。そうすると、私たちは自分の考えを変えなければならなくなるのです。イエスを主と信じる。イエス・キリストに囚われた者(捕らえられた者)。その人の生きる基準、秤、それは自分自身ではないのです。神さまはどのように考えておられるのか、どのように思っておられるのか。そのことを、聖書を通して知り、それに対して、自分を合わせていく、従っていくのです。
(むすび)
「愛に根ざして真理を語り」(15節)、「自ら愛によって造り上げられてゆく」(16節)。愛という言葉が繰り返されています。ここで言われている愛というのは、私たち人間の愛のことではありません。イエス・キリストの愛です。それは罪に支配されていた私たちを罪から解放し、愛に生きるために、ご自分の身を犠牲にされた十字架の愛です。私たちは何事をするにも、語るにも、行なうにも、十字架の愛から始めていくのです。今日の説教題は「キリストに向かって成長する」としました。キリストに向かって、とは、イエス・キリストの十字架の愛を見つめながら歩むことです。そこから、私たちの日々の歩みは変わるのです、新しくされるのです。祈りましょう。
祈り
天の父なる神さま
今朝も私たちはあなたを礼拝することができて感謝します。
今は会堂で一緒に集まることができず、それぞれの家庭で礼拝を行なっています。けれども最初の教会も家庭集会のような形で行なわれていました。一つ所に集まって、祈っていたとき、聖霊が降り、教会が誕生しました。今、私たちのところにも聖霊が降り、導いておられることを信じます。
今日はエフェソの信徒への手紙から、教会について聴きました。私たちそれぞれが神さまから異なった賜物が与えられていること、また私たち自身、異なった存在であること、その違い、多様性を認め合い、喜びながら、神さまの望まれることのために心を一つにして賜物を用いていくように、互いに愛し合い、歩むように導いてください。
愛に根ざして、愛によって、とありました。それは私たちを罪から救うためになさったイエスさまの十字架の愛のことです。パウロがキリストの囚人、キリストの愛に囚われた人(捕らえられた人)であったことをいつもおぼえていたように、私たちもイエスさまがこの私を愛してくださった、その愛をいつも心におぼえて、キリストの愛からすべてのことを語り、行なう者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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