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「栄光と力を主に帰せよ」詩編27編1~11節 2024/06/30 SUN.

「栄光と力を主に帰せよ」詩編27編1~11節 2024/06/30 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―詩編29編1~11節
(はじめに)
 詩編の言葉を読みました。詩編29編です。この詩編の最初のところに、「賛歌。ダビデの詩」とあります。イスラエルの王ダビデの詩と言われる詩編の一つです。「賛歌」とありました。この詩編は、私たちが礼拝で歌っている賛美歌としても歌われたのでしょう。賛歌、賛美歌というのは、神さまをほめ讃える歌です。私たちをお造りになった神さま、私たちをお救いになった神さまをほめ讃えるのです。今日は、日曜日、キリスト教会は、この日を主の日としておぼえ、神さまを礼拝します。私たちは、イエス・キリストの神さまを知っています、信じています。けれども、まだ、多くの人たちが、イエスさまに出会っていません。私たちは、その人たちに、イエスさまをお伝えし、やがては、すべての人たちが、神さまを信じ、神さまを賛美するように祈ります。

(聖書から)
 まず、詩編29編1節の言葉をお読みします。
29:1 【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ
 「神の子らよ、主に帰せよ」とあります。さらに繰り返して、「栄光と力を主に帰せよ」とあります。皆さんは、この詩編の言葉を読んで、思い出す賛美歌があるのではないでしょうか。「新生讃美歌」5番です。この賛美歌の1節は、このような歌詞です。

 神の子たちよ 主に帰せよ
 誉れと力 主に帰せよ
 み名の誉れ 主に帰せよ
 身を正し 主を拝め

 この賛美歌は、私たちの教会の礼拝で、何度も歌ってきた賛美歌です。私たちの教会の礼拝では、以前、交読文というプログラムがありました。司会者と会衆が交互に聖書の言葉を読むというものです。私たちが使っている「新生讃美歌」にも交読文はありますから、今後、検討して、また一緒にお読みしたいと願っています。この「新生讃美歌」の前に、私たちの教会で使っていた賛美歌、「教団讃美歌」と言われるもの、これはプロテスタントの教会の多くの教会が、教派を超えて使っていたものですが、その中には、文語体で詩編29編が入っていました。
 「神の子たちよ」、「神の子らよ」。この呼びかけを聞くと、私は、「ああ、私は神さまの子どもとされたのだ」という感謝の思いが沸き上がってきます。皆さんも、同じではないでしょうか。あなたは、神さまの子どもとされたのだ。イエスさまの救いというのは、私たちが神さまの子どもとして生きるために、イエスさまがなさったことです。
私たちは、神さまから造られた者、神さまから愛された者であるのに、罪によって、神さまから離れていました。しかし、そういう私たちを、神さまはそのままにはなさらないで、ご自分の大切な独り子であるイエスさまを、私たち人間のところにお送りくださいました。イエスさまは、神さまの言葉をお語りになることで、神さまの愛のわざを行うことで、あなたは、神さまの子どもだよ。神さまに造られ、愛されている者だよ。そのことをお知らせくださったのです。そして、イエスさまは、私たちを罪から救うため、十字架におかかりになり、ご自分の命をささげてくださいました。このことを信じることによって、私たちは、神さまの子どもとして生きることができるようになるのです。
「神の子らよ」。この詩編の言葉は、神さまを信じる私たちへの呼びかけ。それは、確かにその通りなのですが、他にも意味があるということです。新しい翻訳である聖書協会共同訳では、この「神の子らよ」という言葉が、「神々の子らよ」となっています。私は、ずっと、「神の子らよ」という言葉で、この箇所を読んできましたから、これは間違っているのかな?と思い、いろいろと調べてみました。すると、この「神々の子らよ」という言葉は間違いではないそうで、この呼びかけというのは、真の神さまを信じる人たち、という意味以外に、二つの意味があるそうです。一つは、真の神さまを信じていた人たちが、いろいろな試練の中で、真の神さまに対する信仰を失ってしまい、別の神々を拝むようになってしまった。そういう人たちに、呼びかけられている、というのです。つまり、真の神さまから離れてしまったあなたたちのことを、私たちは忘れない、おぼえていますよ。だから、戻ってきてください。神さまは、あなたたちが、ご自分のもとに戻ってくることを待っておられますよ。そういう呼びかけだというのです。もう一つの意味は、別の神々を信じている人たちへの呼びかけです。真の神さまは、あなたたちのことをお造りになった方であり、愛しておられる方です。ですから、この真の神さまを知り、この方を信じましょう。そういう呼びかけです。
「神の子らよ」。今、神さまを信じている人たち、以前は、神さまを信じていたけれども、離れてしまった人たち、そして、まだ神さまに出会ったことのない人たち。神さまは、その一人一人のことを愛しておられ、あなたも、あなたも、あなたも神さまの子どもなのだ。そういう神さまの思いを、この詩編は語っているということができます。ですから、私たちは、その神さまの思いを受け止めて、私たちも、神さまから離れている人たち、まだ神さまに出会っていない人たちが、神さまに立ち返ることができるように、神さまを信じることができるように、祈っていきたいと思います、神さまをお伝えしていきたいと思います。
 2節をお読みします。
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
 「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」とあります。神さまは、聖なる輝きに満ちておられる。その方に、私たちは、ひれ伏すのです。ひれ伏すとは、礼拝するということ、神さまにひれ伏す、礼拝するということです。実は、私たちは、神さまを信じる前は、別のものにひれ伏していました。ある人は、人間にひれ伏していました。またある人は、お金にひれ伏していました。でも、本当にひれ伏す相手は誰であるのか、そのことを私たちは知ったのです。私たちは、神さまにひれ伏す。以前は、人間に、お金にひれ伏していた。つまり、人間やお金の奴隷になっていた、人間やお金の言いなりになっていた私たちでした。しかし、今は、神さまの僕となったのです。今は、神さまの言うことを聞いて生きるのです。
 「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」という言葉、別の訳では、「聖なる装いで主にひれ伏せ」(聖書協会共同訳)となっていました。新共同訳では、神さまのことを「聖なる輝きに満ちる」方ということで言われていましたが、別の訳では、私たち自身が、「聖なる装い」で神さまにひれ伏すように、と言われています。「聖なる装い」。神さまを信じたら、私たちの装い、服装は変わるのです。
 新約聖書の中に、あるものを着なさい、身に着けなさい、と言っている箇所があります。そういう個所が何か所かありますが、その中の一つの言葉を読んでみます(ローマ13章14節)。
13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
 「主イエス・キリストを身にまといなさい」とあります。これは、イエスさまを身に着ける、イエスさまを着る、と言ってもよい言葉です。私たちの装い、服装。私たちは、何を身に着けるのでしょうか、何を着るのでしょうか。それは、イエスさまです。イエスさまを身に着ける、イエスさまを着る。今月も感謝なことに、イエスさまを救い主と信じます、と信仰を告白してバプテスマを受けられた方がありました。イエスさまを身に着ける、イエスさまを着る、というのは、イエスさまを信じる、ということです。イエスさまを私の救い主、人生の主として生きる。今までは、自分が主だったのが、イエスさまを信じて、イエスさまを主として生きる。それは、何か月前、何年前のことではありません。過去のことではありません。私たちの信仰は、過去のこと、過去の信仰であってはなりません。今日の信仰、今の信仰です。私は、今日もイエスさまを信じます、イエスさまを主として生きていきます。日々、イエスさまを信じて、イエスさまを主として生きていく。それが、ここで言われていることです。
 3節から以下に、繰り返し出てくる言葉があります。それは何でしょうか。「主の御声」(3。4、5、7、8、9節)という言葉です。「主の御声」、神さまの言葉ということです。3節以下の言葉を読んでいきますと、「主の御声」、神さまの言葉が出来事を起こすということが分かります。私たちは、その「主の御声」、神さまの言葉を聞いて歩むのです。神さまの言葉を聞いて歩む、とはどういうことでしょうか?これは、前にもお話ししたと思います。私たちは何をするにも、WWJD?これは、What would Jesus do?イエスさまならどうする?ということです。イエスさまが求めておられることは何か?イエスさまのお考えは何か?いつも、そのことを聞いて歩むのです。

(むすび)
 今日の詩編の最後の言葉、11節をお読みします。
29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。
 神さまが、私たちに力をお与えになるように。神さまが、私たちを祝福して平和をお与えになるように。これは、祝祷、祝福の祈りと言ってもよい言葉です。私たちは、この祈りに送り出されて、新しい週を、新しい日々を歩むのです。神さまの力、神さまの平和に導かれ、支えられ、歩んでいくことができますようにお祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
「神の子らよ」。これは、私たちに対する呼びかけです。そして、信仰を離れてしまった人たち、まだ主に出会っていない人たちに対する呼びかけです。私たちは、この呼びかけを聞き、この私が神さまにひれ伏す者であるように、神さまを礼拝する者であるように、と祈ります。そして、主に立ち返る人たち、主に出会う人たちがあるように、と祈ります。
主は、私たちに力を与え、平和を与えるお方です。それは、主のご栄光を表すためです。主の愛と正義を表すためのものです。そのために、私たちを用いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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