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聖書の画像 板橋の教会

共に生きる存在として(創世記2章7~25節) 【週報巻頭言】2024年8月18日

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。

「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記2章21~25節)

ここには女が、つまり、もう一人の人が創造される場面が書かれています。女は人のあばら骨で造られた、とあります。このあばら骨ということについて、ある牧師先生は「懐」、「脇」の意味があるということで、「傍らに伴う存在」を示していると言われます。これは、共に生きる存在と言ったらよいでしょうか。

神さまは人に対し、彼に合う助ける者を造られた、いうことですが、この「合う」(創世記2章18、20節)という言葉は別の訳(岩波訳)では「向き合う」と訳されています。私たちは互いに向き合う存在です。互いのことを知り、理解し、そして、助け合い、支え合う存在です。神さまは私たちが互いにそのようにして生きていくことを望んでおられることをこの聖書の言葉から教えられます。

ここには、お互いがかけがえのない存在であることが示されています。神さまが与えてくださった相手、パートナー。これは、家族や友人、教会の兄弟姉妹についても言えるでしょう。お互いがそのような思いを持ち、助け合い、支え合うことができるなら何と素晴らしいことでしょうか。私たちは、互いに助け合い、支え合うことによって、神さまの愛を表していくこと、神さまの恵みを表していくことに努めていきたいと思います。

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