主の霊に導かれて歩む(マタイ4章1〜11節)
マタイ3章8、9節には主イエスに対する悪魔の第三の誘惑が記されています。悪魔にひれ伏し、この世の栄華を求めるように悪魔は誘います。悪魔の誘惑、それは十字架の道を歩ませないということです。主は仕えるためにこの世においでになりました。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(20章28節)。
だから、主はこのように答えられたのです。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある」(10節)。主を礼拝し、主に仕えるように、と言われました。
霊に導かれて荒れ野へ。神様は今、私たちを荒れ野に導かれます。神様は私たちを真に主に従う者となるために導かれるのです。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2章17、18節)。
主はこの世において、この悪魔の誘惑以外にも多くの誘惑、試練を受けられたことでしょう。御自身が身を持って苦しまれたのです。その主は私たちの苦しみをすべてご存じなのです。
霊、すなわち神様は私たちを導いておられます。主イエスを荒れ野に導き、イスラエルの民を荒れ野に導かれた神様は今、私たちを世の荒れ野へと導かれます。しかし、恐れてはなりません。主が共にいますことを信じて(詩編23編4節)。
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