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主の弟子となること(マルコ1章16〜20節)

主はシモンとアンデレ、そして、ヤコブとヨハネの漁師たちをご自分の弟子としてお招きになりました。「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」(16節)。「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると」(19節)。主が彼らをご覧になり、お招きになったことが分かります。主の選びとは何が理由か、何が基準かは分かりません。彼らが主の弟子としてふさわしい人格、学識を備えた人たちであったとは思えません。ただ主は彼らをご覧になり、お招きになったのです。主が彼らに関心を持たれたところから招きは始まりました。今、私たちを主はご覧になり、関心を持たれ、お招きになるのです。
一方、招かれた側の様子を見てみましょう。「二人はすぐに網を捨てて従った」(18節)。「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(20節)。「捨てて」、「残して」とあります。それは不必要なものだから、いらないものだから、というのではなく、かけがえのない大切なもの。それさえも捨てて、残して主に従ったのです。主に従うとはそれほどのことなのです。占星術の学者たちを思い起こします。「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(マタイ2章11節)。学者たちは主に出会い、その喜びから彼らにとってまさに宝をささげたのです。強いられてではなく、喜びに満ちて。弟子たちもそうだったのではないでしょうか。主の弟子となること。それは喜びです。

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