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ひたすら待ち望み・・・(一ペトロ1章13〜25節)

新共同訳の小見出しではペトロの手紙一1章13〜25節は「聖なる生活をしよう」というタイトルになっています。そのタイトルが示しているように、15、16節には「聖なる」という言葉が繰り返し記されています。16節は旧約聖書・レビ記19章2節の引用です。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」。この「聖なる」ということの根拠は神様が聖なる方であるから、ということです。
まず、13節には待ち望むことが教えられています。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」。「だから」は前の内容を受けているのでしょう(一ペトロ1章3〜12節)。そこには新共同訳の小見出しで言うなら、「生き生きとした希望」について語られています(口語訳は「生ける望み」。この「生き生きとした希望」(3節)を「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み」と言うのでしょう。つまり、主の再臨の時のことが言われているようです。今はその時に備えて待ち望みつつ生きる時なのです。私たちは今がどのような時であるかを正しく知らなければならないのです。
「ひたすら待ち望みなさい」とありました。主の再臨、それは終わりの時とも言えます。その日に与えられる恵みをひたすら待ち望むのです。私たちはなかなか待てない者です。すぐに、ということが世の中では求められ、称賛されます。しかし、私たちは神様の時と言うことを知らなければなりません。私たちの側でそれを自由に操ったりすることはできないのです。待ち望みつつ、主に従って歩みましょう。

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