【礼拝説教】2022年8月7日「地の塩、世の光とされた者」
聖書―マタイによる福音書5章13~16節
(はじめに)
イエスさまの山上の説教と言われる聖書箇所を読みました。この説教について、ある議論を聞いたことがあります。それは「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(1、2節)と書いてあることから、イエスさまは群衆に向かって、この説教を語られたのだ、と主張する人たちがいるということ。一方、イエスさまはご自分の弟子たちに向かって、この説教を語られたのだ、と主張する人たちがいるということでした。私はその議論を聞きながら、私自身は、イエスさまのこの説教を特別に、誰かにだけ、限定的に語られたのではないと思いました。そして、イエスさまの説教を聞く人たちが、それが群衆であっても、イエスさまの弟子たちであっても、他人事ではなくて、自分に語られたこととして聞くかどうか、そのことこそが大事なことだと思いました。私たちはどうでしょうか。聖書の言葉を、イエスさまの語られる言葉をどのように聞いているでしょうか。
(聖書から)
今日お読みしました聖書の箇所は、マタイによる福音書5章13~16節でした。新共同訳聖書の小見出しには、「地の塩、世の光」というタイトルが付けられていました。地の塩、世の光。13節には、地の塩について、14節以下には、世の光について書かれています。まず、13節の言葉をお読みします。
5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
「あなたがたは地の塩である」。このようにイエスさまは語られます。先ほどの議論で言うなら、この言葉をイエスさまは群衆に語られたのでしょうか。それとも弟子たちだけに語られたのでしょうか。そのことは分かりません。しかし、このイエスさまの言葉を聞いて、ハッとさせられた人たちがいたでしょう。また何も感じない、という人たちもいたでしょう。
神さまの言葉を聞いて、ハッとさせられる。その場面が書かれている別の聖書箇所から見てみたいと思います。使徒言行録2章37節です。
2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ
イエスさまの弟子のペトロが説教した時のことです。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」。口語訳聖書では「強く心を刺され」となっていました。心を打たれる、心を刺される。私はこのような聖書箇所を読むと、いつもこうでありたいと思います。聖書を読んでいて、心を打たれる、刺される。しかし、正直なところ、なかなかそういうことはないのです。毎日、聖書通読をしていますが、なかなかハッとさせられる、ということはありません。心身が疲れていて、心が鈍くなっていることがあるのかもしれません。私たちの体や心の状態というのは、いつも同じということはありませんから、それは仕方がないことかもしれません。しかし、大事なことは、み言葉に心を打たれる、刺されることがあっても、なくても、み言葉を聞き続けるということです。これは信仰生活全般について言えます。礼拝、奉仕、そういったことでも同じです。感謝や喜びが溢れる時がある。その反対の時もある。私たちの信仰の歩みは上がったり、下がったりします。けれども忘れてはならないことがあります。それは、私たちの信じるイエスさまのことです。ヘブライ人への手紙13章8節にはこのようなことが書かれています。
13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
イエスさまは昨日も今日も、永遠に変わらない。私たちに対する愛は変わらない。そのイエスさまの変わらない愛に支えられて、私たちは信仰の歩みを続けていくことができるのです。
今日の聖書の言葉に戻ります。「あなたがたは地の塩である」。皆さんの中には、この聖書の言葉は何度も聞いてきた、と言われる方があるでしょう。また、この言葉にあるように、イエスさまは、あなたがたは地の塩になりなさい!とは言っておられない。あなたがたは地の塩である、と言っておられる。どんな自分であれ、あなたがたは地の塩なのだ、と言い放っておられる、宣言しておられる。そういうメッセージをこれまでも聞いてきたのではないかと思います。
しかし、私は地の塩なのだ。イエスさまがそのように語っておられても、そうは思えない。自分の現実はそんなものではない・・・。そういう私たちに求められていることは、自分が地の塩とされていることを信じることです。自分ではそう思えなくても、地の塩だ、と言ってくださるイエスさまの言葉を信頼することです。
イエスさまはこうも言われました。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」。塩の役割、それは味付け、腐敗を防ぐ、ものを清めるということです。しかし、塩そのものが前面に出るのではありません。言ってみれば、縁の下の力持ちという役割、サーバント・リーダーです。仕える者であり、指導者であるという一見矛盾したような言葉ですが、これこそがイエスさまが私たちに教えられた生き方です(マタイ20章26、27節参照)。
これに続いて、世の光のメッセージが語られます。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
ここでも、「あなたがたは世の光である」と語られています。あなたがたは世の光になりなさい、とは言われていません。「山の上にある町は、隠れることができない」。この「山の上にある町」というのは、具体的にはエルサレムのことでした。ですから、人々はイエスさまの言葉を聞いて、すぐにエルサレムの町を思い浮かべたことでしょう。
「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」。ともし火というのは部屋を照らし、明るくするためのものです。それを升の下に置くなら、意味がありません。部屋全体を照らし、明るくするために燭台の上に置きます。このように、イエスさまは、あなたがたは山の上にある町、ともし火のような者だ、と言われるのです。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。ここに「あなたがたの光」とありました。あなたがたに与えられている光ということです。実は私たち自身は光そのものではありません。私たちには光が与えられているのです。その光とは何でしょうか。ヨハネによる福音書8章12節をお読みします。
8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
イエスさまはご自分のことを「世の光」と言われました。私たちに与えられている光、それはイエスさまのことです。イエスさまという光を人々の前に輝かす、という役割が私たちに与えられているのです。ではどのようにして、輝かせるのか、というと、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるため」とありました。立派な行いです。「よいおこない」(口語訳)、美しい行いとも訳すことができる言葉です。立派な行い、善い行い、美しい行いをしましょう、というと、何か道徳の教科書のような話になってしまいます。ではこの立派な行いとは何でしょうか。それは光であるイエスさまに従うということです。イエスさまに倣って生きるということです。
立派な行いをする。その目的は何でしょうか。ここにはこのように語られていました。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるため」。天の父というのは、神さまのことです。人々が神さまを崇めるようになるため、神さまを礼拝するようになるため。それが立派な行いの目的です。この目的を私たちは間違えてしまうことがあります。人々が私の立派な行いを見て、私を崇めるようになるため。私の信仰、私の奉仕・・・。それを見て、私が崇められるように。これは目的が間違っています。イエスさまが言われたことから離れています。私が、ではなく、神さまが崇められるように、神さまが礼拝されるために。それが、私たちがイエスさまの言葉から聞く神さまの目的です。
立派な行い。このことについて、もう一つ考えなければならないことがあります。立派な行い、善い行いさえすればよい。心は伴わなくても、行いさえできれば、それでよい。どうでしょうか。先ほど、立派な行いとは、光であるイエスさまに従うこと、イエスさまに倣って生きることと話しました。なぜ、そのようにお話ししたのかと言いますと、心は伴わなくても、行いさえできればよい、というのではない。イエスさまのように行うことが大事なのです。イエスさまが愛を持って行われたように、私たちもそれに従って、それに倣って行うのです。そのためには、まず、この私がイエスさまから愛されていること、イエスさまによって生かされていること。神さまの愛と恵みを心におぼえることです。
(むすび)
ヨハネの黙示録2章4節にはこのようなことが書かれています。
2:4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。
これはエフェソの教会に向けて語られた戒めの言葉です。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」(口語訳は「初めの愛」)。これはエフェソの教会が愛のない教会になってしまったので、愛のある教会になるように悔い改めなさい、ということではありません。「初めのころの愛」というのは、イエスさまの愛のことです。エフェソの教会がイエスさまの愛から離れていることを戒めているのです。立派な行いさえすればよい、というのではないのです。イエスさまの愛から離れてはならないのです。私たちがまず知ること、それは繰り返しますが、イエスさまの愛です。イエスさまから愛されている私、イエスさまから愛されている教会。そのことを忘れてしまうなら、私たちも「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」、この戒めを聞かなければならなくなるのです。
私たちが地の塩とされた、世の光とされた。その目的、神さまの目的は、「あなたがたの天の父をあがめるようになるため」とありましたように、神さまが崇められるため、礼拝されるためです。このことをしっかりと心におぼえ、祈りつつ歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
主が私たちを地の塩、世の光としてくださいましたことを感謝します。そして、その目的は神さまが崇められるため、神さまが礼拝されるためです。このことを忘れることがありませんように。
自分の栄光を求めてしまう私たちですが、地の塩、世の光としてくださった神さまの愛を見つめながら歩む者にしてください。イエスさまのように、イエスさまの愛に倣って歩む者にしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
この記事へのコメントはありません。