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【礼拝説教】2022年12月11日「罪人のただ中に来られた方」

聖書―マタイによる福音書1章1~17節
(はじめに)
 アドベントの時を過ごしています。アドベントは日本語では待降節と書きます。私たちの救い主イエス・キリストがおいでになることを待ち望む時です。主を待ち望むとはどういうことなのでしょうか。二千年前、救い主がおいでになることを信じて、待ち望んでいた人たちのことと自分たちを重ね合わせて思い巡らしてみたいと思います。
 聖書の中に、福音書というものがあります。そこに書かれていることは、イエス・キリストのことです。福音書は幾つもあったようですが、聖書の正典として入れられた福音書は四つあります。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、そして、ヨハネによる福音書です。これらの福音書を書いた人たち、福音書記者と言いますが、その人たちはイエスさまのことを伝えたくて、それぞれの視点から、イエスさまのことを書いたのです。私たちは今日、マタイによる福音書、つまり、マタイが伝えるイエス・キリストを聞いていきたいと思います。

(聖書から)
 ところで、マタイによる福音書には、マタイ自身のことが書かれています。マタイがイエスさまに出会った、その記事がこの福音書の9章にあります(9章9節)。
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
 イエスさまは通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけた、とあります。収税所というのは、マタイの職場です。マタイは収税所に勤めていた徴税人でした。今で言うなら、税務署に勤めていた人ということでしょうか。そのマタイをイエスさまが見かけました。そして、イエスさまはマタイにこう言われたのです。「わたしに従いなさい」。このイエスさまの呼びかけ、招きに応えて、マタイはイエスさまに従っていったのです。
 マタイはイエスさまに従う者、イエスさまの弟子となりました。イエスさまと出会い、イエスさまと共に歩んだこと、そして、イエスさまが与えてくださった救いを知った喜びから、イエスさまを伝えたいと願い、書き記したのが、このマタイによる福音書です。今日はそのマタイによる福音書の最初の箇所をお読みしました。1章1節はこのような言葉から始まっています。
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
 「アブラハムの子ダビデの子」とあります。これは、アブラハムの子孫、ダビデの子孫ということです。アブラハムの子孫であり、ダビデの子孫、それがイエス・キリストだというのです。ところで、イエスさまの系図というのは、別の福音書にもあります。ルカによる福音書3章23節から、イエスさまのもう一つの系図が書かれています。もし、聖書をお持ちの方はご覧いただきますと、二つの違いに気づくと思います。一つは、マタイの方のイエスさまの系図は古い方から新しい方へ、先祖から子孫へ、という順番になっているのに対して、ルカの方は新しい方から古い方へ、子孫から先祖へ、という順番になっていることです。
 もう一つの違いは、ルカの方の系図は、アダムから始まっていますが、マタイの方の系図は、アブラハムから始まっています。この違いは特別な意味があります。アブラハムについて書かれている箇所を読んでみます(創世記12章1~3節)。
12:1 主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
 神さまがアブラハムに語った言葉です。ところでここでは名前がアブラムになっていますが、のちにアブラハムという名前に変わります(創世記17章4、5節参照)。このアブラハムという名前の意味は「多くの国民の父」(創世記17章4、5節)です。ここから、アブラハムのことをイスラエルの父と呼ばれるようになりました。イスラエルの民、それはこのアブラハムから始まったのです。
 ここまでの話からお分かりになったと思いますが、マタイによる福音書のイエスさまの系図というのは、アブラハムから始まるイスラエルの民の系図であり、イスラエルの民の歴史です。このように、マタイはイスラエルの民に向けて、つまり、自分の同胞であるユダヤの人たちにイエスさまを伝えることを目的にして、この福音書を書いたのです。
 さて、2節以下には、アブラハムから始まる系図が書かれています。ずっと、男性の名前が出てきますが、その中で女性の名前が何人か出てきます。タマル(3節)、ラハブ、ルツ(5節)、そして、女性の名前ではありませんが、ウリヤの妻(6節)です。なぜ、この四人の女性だけがこの系図に出てくるのでしょうか。この人たちについて言えば、タマルは自分を遊女と偽って、父の子を産みました。ラハブは遊女でした。ルツは異邦人でした。ユダヤ人からは神の民ではないとされ、忌み嫌われていた人でした。ウリヤの妻とあるのは、ダビデがウリヤの妻を奪って自分の妻にしてしまったということです。
以上、四人の女性たちというのがどのような背景を持つ人たちであったかをお話ししましたが、この人たちというのは、この系図の中では、陰の部分に当たる人たちではないかと思います。本当だったら隠したい部分です。しかし、あえてマタイはその人たちの名前を出しているのです。四人の女性のことから、陰の部分、隠したい部分と言いました。すると、何かこの四人の女性たちが罪深い人たちのように受け取られるかもしれません。けれども、その内容を見ていきますと、そうではありません。むしろ、この女性たちは被害者と言える人たち、男性によって苦しみを受けた人たちでした。そうしますと、マタイがこの系図を書いたことは、イエスさまがどんなに素晴らしい血筋から生まれた方であったのか、という話にはなりません。
NHKのテレビで「ファミリーヒストリー」という番組があります。著名な俳優、歌手、タレントなどの家系をひもとくという内容です。先祖には有名な武士がいたとか、大変苦労したお祖父さまがおられたとか、毎回、観る度に感動する内容ですが、その人たちの家系、血筋の中には、目立たない、本当に地味な人生であった人や、先ほどのイエスさまの系図の中に出てきた人物のように、悲しい経験をした人もいたことでしょう。そのようなことを思うとき、立派な人、感動するような生き方をした人たちだけに目を向けるのではなく、名も知られない無名の人たち、いろいろな人生を歩んでいった人たちもいたこと、その人たちを通って、今、この人があるのだ、また、この私があるのだ、ということをおぼえたいと思うのです。
聖書に戻りますが、アブラハムの子、ダビデの子であるイエスさま。イエスさまの系図の書き出しは、イスラエルの父と呼ばれたアブラハム、イスラエルの偉大な王と言われたダビデ、その子孫がイエスさまということですが、この系図の中身を見ていきますと、ここに書かれている人たちというのは、決して、優れた人たち、完全な人たち、罪を犯したことのない人たちということではなかったことをおぼえたいと思うのです。むしろ、人間的な弱さを抱え、罪に悩み、失敗し、挫折し・・・、という一人一人であったのです。しかし、そういう人たちのただ中にイエスさまがおいでになった。それがこの系図の示していることではないでしょうか。
アブラハムとダビデについても、アブラハムはイスラエルの父祖、信仰の父と言われましたが、旧約聖書に書かれているアブラハムの箇所を読んでいくと、アブラハムも一人の罪人に過ぎなかったことが分かります。同じくダビデの箇所を読んでいくと、ダビデはイスラエルの偉大な王と呼ばれる人物でしたが、ウリヤの妻を奪ったという事件がありましたように、やはりダビデも一人の罪人に過ぎなかったことが分かります。そういう罪人のただ中にイエスさまはおいでになった。そして、この話を聞く私たちも神さまの前に立つ時、自分が一人の罪人であることを認めなければなりません。そういう私たち罪人のただ中にイエスさまはおいでになった。そのことを私たちは感謝したいと思うのです。

(むすび)
 16節に、イエスさまがお生まれになったことが書かれています。
1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
 この系図を見ていきますと、男性が子供をもうけた、という言葉が繰り返されています。当時は男性社会でしたから、このような表現になっているわけです。それももっと正確に訳すなら、例えば、アブラハムがイサクを生んだ。・・・ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ、となるのですが、男性が生むという言い方は日本語ではおかしいということから、もうけた、という言葉を使っているのでしょう。しかし、16節の最後には、このようなことが書かれています。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」。ここでは、ヨセフがイエスを生んだ、とはなっておらず、マリアからイエスが生まれた、となっています。それはどういうことかというと、イエスさまは聖霊によって生まれた、ということです。聖霊によってマリアは身ごもり、イエスさまが生まれた。聖霊によって、つまり、神さまの出来事、神さまのみわざとして、イエスさまがお生まれになったことがここに示されているのです。
 今日は、イエスさまの系図の箇所から、神さまの言葉を聞きました。神さまは私たちを罪から救うために、メシア、救い主と呼ばれる方、イエス・キリストをお送りくださいました。この救い主を喜んで、私たちの心に、人生にお迎えしましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 あなたのみ子であるイエス・キリストは私たちを罪から救うためにおいでくださいました。
今日は、福音書の一つマタイによる福音書のイエスさまの系図の書かれている箇所から、イエスさまがなぜ、私たちのところにおいでになったのかを聞きました。
 アブラハム、ダビデ、そして、この系図に書かれている一人一人はみんな神さまの前に一人の罪人に過ぎません。そして、私たちも神さまの前には一人の罪人に過ぎません。
 しかし、そういう私たちのために、神さまはご自分の大切なみ子であるイエス・キリストをお送りくださり、私たちを罪から救い出してくださいましたから感謝します。
 このアドベントの時、救い主に出会い、この方をお迎えし、新しい人生を歩む方がありますように。そのために私たちを救い主をお伝えする、お知らせする使者として用いてください。そして、クリスマスを一緒にお祝いすることができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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