【週報巻頭言】2023年3月19日 見劣りのする部分をいっそう引き立たせて(一コリント12章12~31節)
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(一コリント12章23~26節)
一コリント12章24節のこの言葉はとても大事なことが言われていると思います。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」。「見劣りのする部分」。私たち人間の視点、考えでは、その見劣りのする部分を覆ったり、見栄えよくしたりします。しかし、神さまは、見劣りのする部分をいっそう引き立たせる、というのです。これはどういうことでしょうか?それは、覆ったりせず、見栄えよくしたりもせず、見劣りのするままで、神さまはその部分、その人を用いられるということではないでしょうか?
私は、この「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」という言葉から、パウロの証しが書かれている聖書箇所を思い起こしました。その証しを読んでみたいと思います(二コリント12章7~10節)。
また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(二コリント12章7~10節)
パウロの肉体には一つのとげが与えられた、と言っています。それが何であるかは分かりませんが、おそらく、病であったと思われます。その病があるために、福音宣教の働きに支障があると考えたのでしょう、パウロは神さまに何度も癒されるように祈りました。しかし、神さまはパウロにこのように語られました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。岩波訳では、「力は弱さにおいて完全になる」となっています。この言葉を受けて、パウロは、弱さにあって、自分を支え、自分を生かしてくださる神さまを誇ったのです。
そして、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」と語られていましたように、「見劣りのする部分」。パウロの証しで言えば、「弱さ」。そこに神さまの力は現れるのです。
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