神の愛の豊かさに生きる(エフェソ3章14~21節)【週報巻頭言】2024年2月11日
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(エフェソ3章18、19節)
パウロは、キリストを信じる者が、キリストの愛がどれほどのものであるかを理解するように、人間の知識をはるかに超えるキリストの愛を知るように。それによって、神さまの満ち溢れる豊かさにあずかり、満たされるように、と祈ります。
教会は、「学校である」とある方は言いました。何を学ぶ学校かというと、神さまの愛を学ぶ学校です。私たちはキリストの体である教会に集います。何のために集うのかというと、繰り返しますが、神さまの愛を学ぶためです。
私たちは、キリストに出会い、神さまの愛を知ることによって、自分がいかに神さまの愛から遠い者であるか、どんなに愛の小さな者、愛の無い者であるかに気づかされます。それはつらいことですが、その気づきというのはとても大切なことです。
私たちは神さまを知る前は、人と自分を比べて、自分はそれなりの人間だ、と思って優越感を持ったり、その反対に、あの人にはかなわない、と劣等感を持ったりしていました。しかし、神さまを信じて生きるというのは、自分と人を比較して生きる生き方ではありません。神さまの前に立ち、神さまの目から見た本当の自分を知るのです。神さまから見た私。それは、聖書から知ることができます。神さまから見た私は一人の罪人です。愛の無い、自分を中心に生きてしまう者・・・。そういう私を神さまはそれでも愛しておられ、この私のために救い主を送ってくださったのです。救い主イエス・キリストをお迎えするならば、私たちはキリストがお示しになった神さまの愛に生きる者とされるのです。「神の満ちあふれる豊かさ」とは、神さまの愛の豊かさということです。この豊かさに生きる者とされるのです。
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