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「私を顧みられる神」創世記16章1~16節 2026年4月26日 

私を顧みられる神 創世記16章1~16節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 アブラハムは信仰の父と呼ばれた人物でした。創世記15章をご覧くださると、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15章6節)とあります。アブラム、この人は後にアブラハムという名前になりますが、そのことについては次の17章で触れます。アブラムという人が信仰の父と呼ばれた人であり、15章でも、主を信じた、神さまを信じた、とあることから、さぞかし立派な生き方をしたのだろうと想像するかもしれません。けれども、今日お読みしました16章では、その思いが引っくり返るような内容が書かれています。

(聖書から)
 アブラムとその妻サライの夫婦には子供がいませんでした。そのことが1節に書かれていました。また妻のサライには、エジプト人の女奴隷ハガルという人がいたことも書かれていました。2節をお読みします。
16:2 サライはアブラムに言った。
「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」
アブラムは、サライの願いを聞き入れた。
サライは夫であるアブラムに、神さまは私に子供を授けてくださらない、と言っています。そこでサライは、こういう提案をします。サライの女奴隷であるハガルと関係をもってほしい。そうするなら、子供が与えられるかもしれない、というのです。びっくりするような話ですが、アブラムはサライの願いを聞き入れた、とあります。
創世記15章では、アブラムが神さまに率直に、自分たちには子供がないことを申し上げて、自分の僕に跡を継がせると話しましたが、それに対して、神さまは、あなたから生まれる者が跡を継ぐ、と言われました。つまり、神さまは、アブラムとサライの間に子供が生まれると約束してくださったのです。アブラムはその約束を信じました。ところが、今日の聖書箇所では、妻サライは自分たちに子供ができないことを嘆いて、アブラムとハガルが関係をもって、子供が与えられたらよいのでは、と言っています。そして、その願いをアブラムは聞き入れた。それでは、アブラムが神さまを信じた、というあの話はいったい何だったのかという展開になっています。
3節には、アブラムが神さまを信じた。つまり、アブラムとサライの間から子供が生まれると神さまが約束されて、十年が経ったことが書かれています。十年ということを考えますと、妻のサライの気持ちも分からなくはないと思うのです。神さまが私たちに子供を与えると約束してくださった!アブラムは嬉しくて、サライにそのことを伝えたことでしょう。夫婦でいつなのか、いつなのか、と待ち望んで過ごしていたことでしょう。ところが、それから十年の月日が経ってしまった。アブラム以上に、妻であるサライは辛かったと思います。そういうことを考えると、ただ不信仰ということだけではすまされない。アブラムも妻の気持ちを思うあまりに、サライの提案、それは決して信仰的なこととは思えないことでしたが、なぜ、聞き入れてしまったのでしょうか。
アブラムとハガルの間には子供が生まれます。4~6節をお読みします。
16:4 アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。16:5 サライはアブラムに言った。
「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」
16:6 アブラムはサライに答えた。
「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。
 4節にありますように、ハガルについて、自分が身ごもったのを知ると、ハガルはサライを軽んじた、ということです。私は、私の主人サライとは違って、子供を宿す力がある!と考えたのでしょうか?そのことで自分の主人であるサライを軽んじてしまったのです。すると、サライはアブラムにこう訴えます。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」。
 もともと、ハガルに子供を生ませようとしたのは、サライでした。ところが、サライはこのことをアブラムのせいにしています。何と勝手なことだろうか、と思いますが、聖書は、このような人間のありのままの姿を書いています。アブラムはおそらく、サライの訴えに対して、圧倒されたのではないでしょうか。サライに、ハガルのことはあなたの好きなようにするがいい、と言い放っています。アブラムもアブラムです。自分の子供を宿したハガルのことも突き放しています。このようなことで、サライはハガルに辛く当たったため、ハガルはサライから逃げた、ということです。
 ここまでの話ですが、まるでテレビのドラマを観ているような内容です。人間の罪深さ、エゴイズムと言ったらよいでしょうか。そういう有様が率直に表されています。サライについて言えば、神さまの約束を待ちきれなかったこと、自分が提案したことでハガルは子供を宿しましたが、ハガルが自分を軽んじたことで、ハガルに辛く当たるようになりました。アブラムについて言えば、サライの言われるままに、信仰に立って振る舞うことはしませんでした。ハガルのことも無責任な態度を取りました。ハガルは自分が子供を宿したことでサライを軽んじるようになりました。私たちはこういう箇所を読むと、サライはこうしたらよかったのに、アブラムはこうしたらよかったのに、ハガルはこうしたらよかったのに、と考えるかもしれませんが、これがもし自分が当事者であったらどうだったでしょうか?
16:7 主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、16:8 言った。
「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、16:9 主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
16:10 主の御使いは更に言った。
「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
16:11 主の御使いはまた言った。
「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。
16:12 彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
 主の御使いはハガルにこのように尋ねます。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。これは大切な問いです。私たち人間は、どこから来たのか?そして、どこへ行くのか?聖書はこの問いに答えます。私たち人間は神さまから生まれ、そして、神さまのもとへ行く、帰る。
 ハガルは女主人のもとから逃げ出してきたと答えていますが、それに対して、主の御使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」と言いました。主の御使いとは、神さまのみ心を示す存在、神様の意志を伝える存在です。「従順に仕えなさい」とありましたが、口語訳聖書では「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」となっていました。「その手に身を任せる」。これはもちろん、女主人に対して、身を任せるということになりますが、それだけではありません。神さまのみ手に身を任せるのです。
 そして、10節以下には、神さまのハガルに対する約束の言葉が語られています。これを聞いたハガルはこう言っています。
16:13 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。16:14 そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。
 ハガルは、神さまはこの私を顧みてくださった、と言いました。エル・ロイというのは、私を顧みてくださる神さまという意味です。「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」。このハガルの言葉は、聖書協会共同訳では、「私はここでも、私を見守る方の後ろ姿を見たのでしょうか」となっています。「私を見守る方」というのは、神さまのことです。神さまの後ろ姿を見た、という訳になっているのですが、これは、旧約聖書では、罪人である私たち人間は神さまという聖いお方を正面から見ると死んでしまう、と教えられていますので、このように、神さまの後ろ姿を見た、と訳したのかもしれません。神さまは私を顧みてくださった。そして、私も神さまを見続けた、神さまの後ろ姿を見続けた。信仰というのは、神さまを信じた、見た。そこで終わりではありません。神さまを信じ続ける、見続けることです。ここには、私は神さまを見続けた、とありましたが、私たちのこの目で見る、肉眼で見るというよりも、心で神さまを見ると言ったらよいと思います。あるいは、心を神さまに向けていくと言ってもよいでしょう。私たちもハガルのように、心で神さまを見続ける、心を神さまに向けていくのです。

(むすび)
 聖書は、待ち望む、ということを教えます。アブラムとサライは、神さまの約束を十年、待ち続けましたが、待つことに挫折してしまいました。待つことの難しさを知らされます。私たちが今、教会につながっていることはとても意味のあることです。信仰生活を一人で続けていくのは難しいことです。しかし、教会に集い、つながることで、神さまを信じる兄弟姉妹が共に主を見続けるように、主を信じ続けるように互いに励まし合い、支え合うのですから。今日の箇所の最後には、生まれた子供の名前について、イシュマエルと名付けたことが書かれていましたが、このイシュマエルという名前の意味は「主がお聞きになる」ということです。ハガルの心の叫び、苦しみを神さまはお聞きになりました。そして、神さまは、私たちの心の叫び、苦しみもお聞きになる方です。主に心を開いて、何でも打ち明けていきましょう。私たちは神さまに祈ることができる、私たちを顧みてくださる主に祈ることができるのです。お祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
アブラムとサライは神さまの約束を待ち続けました。待つことは難しいことです。私たちはすぐに答えを求めます。しかし、聖書に出てくる信仰者たちは、主の約束を待ち望んだ、待ち続けた人たちでした。
エル・ロイ。ハガルは、神さまは私を顧みられる方、そのことを知った時、このように言いました。「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」。ハガルは、神さまを見続ける者、待ち続ける者となりました。
私たちの地上における歩みには、様々な苦難がありますが、私たちを神さまが顧みてくださることを信じて、神さまを見上げて歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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