「仕える者として生きる」マタイによる福音書23章1~12節 2026年6月14日
(はじめに)
お読みした聖書の個所はマタイによる福音書23章でした。その前の章の22章には、イエスさまとファリサイ派の人々、サドカイ派の人々との対話が書かれていました。彼らはイエスさまを批判するため、反対するためにイエスさまに質問をしたりしましたが、イエスさまは、それに対して、誠実に答えていきました。私たちは、そういうイエスさまの生き方、態度から、イエスさまを信じる者として、イエスさまの弟子としてどのように生きるかを教えられます。
(聖書から)
お読みしたマタイによる福音書23章1節からの言葉、最初の1節には、このようなことが書いてありました。
23:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
先週の礼拝でお読みしたのは、マタイによる福音書22章の言葉でした。そこには、イエスさまとファリサイ派の人々、またイエスさまとサドカイ派の人々のやり取りがありました。ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々は、イエスさまの言葉尻を捕らえて罠にかけようとして、また試そうとして、質問をしました。その様子を見聞きしていた群衆、また弟子たちは、この人たちは、イエスさまに対して、何ということをしているのか、と思っていたのではないでしょうか。ところが、今日の聖書の言葉を読むと、イエスさまは、群衆と弟子たちに向かって、お話しになっています。群衆と弟子たちは、自分たちは、イエスさまに反対していないし、批判もしていない。私たちは彼らと違って何も問題はない。それなのに、イエスさまは私たちに何を言われるのだろうか?そんなことを心の中で思っていたかもしれません。
2~4節をお読みします。
23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
「モーセの座に着いている」というのは、神さまの律法を教える立場にある、ということです。イエスさまは、律法学者たち、ファリサイ派の人々がモーセの座に着いている、つまり、神さまの律法を教える立場にあることについては、尊重していたのです。彼らは、イエスさまのことを反対し、批判していましたが、だからといって、イエスさまは、彼らを否定するようなことはなさらなかったのです。
一方、群衆と弟子たちは、ファリサイ派の人々のイエスさまに対する態度を見て、躓いていたかもしれません。あの人たちは、神さまの律法を教える立場であるのに、私たちの主に対して、どういうつもりなのか!あんな人たちの言うことに耳を傾けることはできない!と怒っていたかもしれません。しかし、主はこのように言われたのです。「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」。
イエスさまは、律法学者、ファリサイ派の人たちは、神さまの教えを教えているのだから、あなたがたはそれを聴いて、学びなさい、実行しなさい、と言われたのです。けれども、それに続いて、このようなことも言われました。「しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。「言うだけで、実行しない」。律法学者、ファリサイ派の人たちは、律法を、つまり、聖書の言葉をよく学んでいて、人に教えることができました。しかし、彼らは、聖書の言葉を教えるだけで、実行しない・・・、というのです。ここから分かることは、聖書の言葉というのは、ただ知識として学ぶだけのものではないということです。聖書の言葉は、実行するものなのです。
新約聖書の中の一つに、ヤコブの手紙という文書があります。このヤコブの手紙の特徴としては、信仰は行いが大切であるということが書かれているということです。聖書が教える救いというのは、イエスさまを救い主と信じることで救われるということです。私たち人間の行いによるのではなく、イエスさまを信じることで救われるということです。それでは、行いは必要ないのか、というと、そうではありません。救われた人は、救われた喜び、感謝から、神さまの言葉に従うのです。神さまの愛を表すこと、神さまの正しさ、真実を表すことに励むのです。それが、信仰による行いということです。
ヤコブの手紙から、行いについて書いてある言葉を一か所、読んでみます(ヤコブ1章22~24節)。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
「聞くだけで終わる者になってはいけません」とありました。聖書の言葉をただ聞くだけ、聞いても行わない、というのは、聖書の言葉を自分の身に着けるということです。聞くだけでなく、身に着ける。例えば、YouTubeで筋トレ(筋力トレーニング)について視聴します。こんなふうにやるのか、とスクワットや腕立て伏せの仕方が分かるわけですが、見るだけ、聞くだけだと何もなりません。実際に見たこと、聞いたことを実際にやってみることで、トレーニングの効果が出るわけです。聖書の言葉も同じです。ただ聞くだけでなく、聖書の言葉を自分の身に着けていくのです。言葉を身に着けるというと、分かりにくいかもしれませんが、別の言い方をすると、聖書の言葉を、自分の生き方として取り入れていく、取り込んでいくということです。そのようにして、聖書の言葉が自分の人生の中心に据えられていく、土台になっていくのです。
今日の個所に戻ります。イエスさまは、続いて、このように語られました。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(4節)。これはどういうことかというと、人には教えるけれども、要求するけれども、自分自身は実行しないということです。聖書の言葉を教える人は、自分も実行するように努めるのです。なぜなら、人々は、神さまを信じている人の生き方を通して、神さまを知るからです。
5節をお読みします。
23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
「聖句の入った小箱」、「衣服の房」とあります。神さまの言葉を忘れないために、神さまの言葉の書かれた紙が入った小箱を額や腕に着けました。衣服の房を長くするのも同じ意味です。そうすることで、神さまの言葉を忘れないように、思い起こすようにしたのです。ところが、「人に見せるため」とあるように、自分自身が神さまの言葉を、神さまを忘れないためという目的だったのが、自分の信仰深さを人々に誇示するためという目的になってしまったのです。
マタイによる福音書6章には、施し、祈り、断食について、イエスさまが語られている箇所があります。イエスさまの時代、ユダヤでは、施し、祈り、断食というのは、敬虔な、信心深い人たちの行うこととして賞賛されていました。しかし、イエスさまは、その話をされる時、繰り返し、このようなことを言われました。「見てもらおうとして」(6章1、5、16節)。施し、祈り、断食を人々に見てもらおうとして行う人たちがいたというのです。見てもらうことで、あの人はとても信仰深い、敬虔な人だ、と人々に賞賛されることを求めたのです。しかし、イエスさまは、それらのことは、つまり、信仰とは、人々に賞賛されるためではない、と言われたのです。イエスさまは、信仰とは、「隠れたことを見ておられる父」(4、18節)、「隠れたところにおられるあなたの父」(6、18節)、つまり、私たちの心の中を見ておられる神さまに対して行うものだと言われたのです。
6節以下をお読みします。
23:6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、23:7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
先生と呼ばれてはならない。父と呼んではならない。教師と呼ばれてもいけない。それは、自分が神さまのような存在になってはならない。自分が偉い者であるかのように考えてはならない、ということです。私は若い時、ある先輩の牧師から、アドバイスを受けました。それは「牧師というのは、教会で『先生』と呼ばれることがあるけれども、『先生』と呼ばれることで、自分が何か偉くなったつもりになってはいけないよ」ということでした。パウロは、コリントの信徒への手紙一8章2節でこのようなことを語っています。
8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
ソクラテスという哲学者が、「無知の知」ということで、同じことを言っていますが、私たちはまだ知らないことばかりの者であり、学び続ける者であることを知る時、傲慢から、高ぶることから守られるのではないでしょうか。イエスさまは、「あなたがたの師は一人だけ」、「あなたがたの父は天の父おひとりだけ」、「あなたがたの教師はキリスト一人だけ」と言われました。真の師、真の父、真の教師は、神さまただお一人です。それに対して、自分は、神さまの前に立つ時、何も知らない、分からない、不完全な、弱い者であること。そういう自分が神さまに愛され、赦され、大切な存在として生かされていることをおぼえたいと思います。
(むすび)
11節からお読みします。
23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
これが、今日の聖書個所のキーワードと言える言葉です。「仕える者」、「へりくだる者」とは誰のことでしょうか?「仕える者」、「へりくだる者」、それは、イエスさまのことです。イエスさまは、私たちの救い主、神さまです。しかし、イエスさまは、仕える者として、へりくだる者としてこの世においでになりました。フィリピの信徒への手紙には、イエスさまのことがこのように書かれています(フィリピ2章6~8節)。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
私たちの救い主は、仕える者として、へりくだる者として歩まれました。私たちは、イエスさまの後に従って、イエスさまに倣って歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
今日の聖書の言葉にありましたように、律法学者たち、ファリサイ派の人たちだけでなく、群衆も、イエスさまの弟子たちも、そして、私たちも傲慢に陥ることがあります、人よりも上に立とう、偉くなろうと考えることがあります。
神さまのみ子イエスさまは、仕える者として、へりくだる者として、私たちのところにおいでになりました。そして、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と言われました。主は、私たちに、神さまの目に最も良い生き方は、仕える者として生きることだと示してくださいました。私たちは、イエスさまの後に続いて、イエスさまに倣う者として導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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